(165)『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(浮世絵、陶芸、文学など)

2016-10-29 20:38:10 | Weblog
(165)『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(浮世絵、陶芸、文学など)

 浮世絵は、日本の代表的な文化の一つといえよう。菱川師宣から始まり、鈴木春信や勝川春章などの巧者を経て、民衆の中に根を下ろし、延ばしていった。江戸期の民衆の歩みと共にひたひたと歩んできたこの芸術が、最初の大輪の花を咲かせるのが、喜多川歌麿が活躍した江戸中期であった。
 歌麿の生きたのは、1753年頃、1806年に没した。出身地などは不明な点も多い。幼い頃に狩野派の絵師、鳥山石燕に学んだ。1780年代には黄表紙や挿絵の錦絵などを手掛けた。晩年に成っては、浮世絵美人画の第一人者に上り詰めた。
 歌麿の作品は、多数ある。好んで描いた対象は、特権階級ではない、多くは遊郭の女性や花魁もあるが、主に市井の町娘も描いた。どちらかというと、つましく暮らしている人々だ。例えば、「寛政三美人」(当時三美人)は、1793年頃の作で、大判錦絵となっており、ボストン美術館(アメリカ)で所蔵されている。後に「婦人相学十躰・ビードロ(ぽっぴん)を吹く娘」と名付けられた絵は、成熟した女性の人格まで描き分けようとしたかのような、歌麿のシリーズもの中での代表作ともいわれる。江戸以外の地に生きる人々の姿も手掛けており、「鮑とり」(6枚続き)は沖合に漕ぎ出しての、海女たちの労働をあらわし、寛政初期にかけて手掛けた「画本虫撰(えほんむしえらみ)」や「百千鳥」「潮干のつと」などの狂歌絵本においては、植物、虫類、鳥類、魚貝類などが生き生きと息づいている。ほかにも、春画、肉筆画も手掛けていて、多彩な筆遣いで縦横無尽な才能といったところか。
 描き方は、一言でいうなら、そんじょそこらには観られない、繊細かつ優麗な描線を特徴としている。それでいて、さまざまな姿態、表情の女性の中からい出てくる美を追求した。大胆なポーズをとってる作品もあり、自由自在にかき分けている、というほかはない。顔は大きく、実物を観察するうち、クローズアップしてくるものを自分の頭の中で再構成して描いているのではないか。彼の特徴は、細い線だとうかがった。そこに注意して観ていると、おっとりした表情の中に描かれている人物の息遣いまでが伝わってくるかのような心地になるから、不思議だ。
 浮世絵は、合作だ。絵師がいて、彫り師がいて、摺り師がいて、とにかく多くの皇帝に跨ることで、その協力があって初めて作品が出来上がり、買い手がつく。その分業の始めから終わりまでを取り仕切る商売人がいて、さながら問屋制による手工業のようでもあったろう。忘れてはならぬのは、蔦谷重三郎(つたやじゅうざぶろう、1750~97)の功績であろう。彼は、江戸吉原に生まれた。7歳の頃、商家の蔦屋に養子に出される。長じては、初め吉原大門外の五十間道に店を開き,地本問屋(じほんどいや)の鱗形屋(うろこがたや)から毎年発行している吉原のガイドブック(『吉原細見』(よしわらさいけん)の小売りを営んでいた。そのすがら、太田南畝、恋川春町、山東京伝らの作家や、北尾重政、勝川春章、喜多川歌麿らの浮世絵師たちと見知っていく。1774年(安永3年) 、初めて版元として浮世絵(北尾重政画の「一目千本花すまひ」を出版する。1783年には、日本橋通油(とおりあぶら)町に店を構える。時代は、いわゆる田沼時代。それからは、喜多川歌麿や東洲斎写楽らを売り出すなど、ヒット作を飛ばしていった。浮世絵版画だけでなく、黄表紙や洒落本、狂歌絵本なども手掛けていく。間口の広い、出版業の走りだといえよう。須原屋市兵衛と並ぶ代表的な出版業者という意味を込めて、「蔦重」と通称される。
 ところが、田沼老中が失脚すると、寛政改革で時代は風俗の抑圧へと動いていく。1791(寛政3)年、作家の山東京伝が世相を風刺することで風俗を乱していると咎められ、山東は手鎖の刑50日、重三郎は「身代」(財産)の半分を没収という厳しい刑を受ける。それでも、重三郎の反骨精神は没するまで続いたといわれる。1796年(寛政8年)には、美人画に、「富本豊ひな」や「難波屋おきた」などの実名をすり込むことが禁止される。1799年(寛政12年)には、歌麿に関係深いところで、奉行所による錦絵の検閲強化で「美人大首絵」までが禁止されてしまう。最大級の被害者である歌麿は、その作品を半身像にしたり、三人像にしたりで、なんとか法の網をかいくぐっていくのであった。
 歌麿以降の浮世絵は、鳥井清長、東洲斎写楽(複数人かも)、葛飾北斎、宇田川豊国、安藤広重らに引き継がれ、後には世界の美術へ影響を及ぼすことにもなってゆく。
 松尾芭蕉(まつおばしょう)は、日本における江戸期の俳句の最高峰ともされる人物であって、その彼がすべてを俳句づくりにかけてきた姿勢が窺えるものに、「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」がある。また、律儀な性格を伝えるものに、「名月や池をめぐりて夜もすがら」とある。旅の途中、出没する至る所において、誠に臨機応変、自己表現の「達人」というべきか。小林一茶は(こばやしいっさ)、正義の味方というよりは、弱者の味方ともとれそうな句を沢山つくった。そのあまたの句中から一つ、「やせ蛙負けるな一茶是にあり」とあり、なんだか大きな蛙に小さな蛙がけとばされながらも、相手をにらんでいる、一種剽軽(ひょうきん)な様が窺える。その彼にしても、いつか道に迷ったとき、心の苦しい時も多くあったらしく、「露の世は露の世ながらさりながら」とい愛児の死に浸る句がある。そのかたわら「ともかくもあなたまかせの年の暮れ」ともあり、阿弥陀如来にはからいに任そうとという神妙な心境もうたっているところだ。
 平賀元義(ひらがもとよし)は、1800年(寛政12年)、岡山城下富田町で生まれた。岡山藩士平尾長春の嫡男だった。1832年(天保3年)、33歳の時脱藩したのは、そのままでは世に出られないと考えたのか。平賀左衛門太郎源元義と名乗って、備前、備中、美作などへ、放浪を始める。多くの万葉調の歌を作った。また、書を能くした。性格は、奔放純情ながら、潔癖などの奇行も多かったとか。生涯不遇の人で、仕官の話があった矢先、岡山市長利の路傍で卒中のため急死した。
 66年の生涯におよそ700首を詠んだ。ここに数例を挙げれば、「放たれし野辺のくだかけ岡山の大城恋しく朝夕に啼く」、「春来れば桜咲くなり。いにしへのすめらみことのいでましどころ」、「神さぶる大ささ山をよぢくれば春の未にぞ有紀は零りける」(大佐々神社(おおささじんじゃ、現在の津山市大篠)にて)、「見渡せば美作くぬちきりはれて津山の城に旭直刺」(同)等々。
 正岡子規の『墨汁一滴』には、歌人としての平賀元義を褒めちぎる一節がある。
 「徳川時代のありとある歌人を一堂に集め試みにこの歌人に向ひて、昔より伝へられたる数十百の歌集の中にて最善き歌を多く集めたるは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と答へん者賀茂真淵を始め三、四人もあるべきか。その三、四人の中には余り世人に知られぬ平賀元義といふ人も必ず加はり居るなり。次にこれら歌人に向ひて、しからば我々の歌を作る手本として学ぶべきは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と躊躇なく答へん者は平賀元義一人なるべし。万葉以後一千年の久しき間に万葉の真価を認めて万葉を模倣し万葉調の歌を世に残したる者実に備前の歌人平賀元義一人のみ。真淵の如きはただ万葉の皮相を見たるに過ぎざるなり。世に羲之を尊敬せざる書家なく、杜甫を尊敬せざる詩家なく、芭蕉を尊敬せざる俳家なし。しかも羲之に似たる書、杜甫に似たる詩、芭蕉に似たる俳句に至りては幾百千年の間絶無にして稀有なり。歌人の万葉におけるはこれに似てこれよりも更に甚だしき者あり。彼らは万葉を尊敬し人丸を歌聖とする事において全く一致しながらも毫も万葉調の歌を作らんとはせざりしなり。この間においてただ一人の平賀元義なる者出でて万葉調の歌を作りしはむしろ不思議には非るか。彼に万葉調の歌を作れと教へし先輩あるに非ず、彼の万葉調の歌を歓迎したる後進あるに非ず、しかも彼は卓然として世俗の外に立ち独り喜んで万葉調の歌を作り少しも他を顧ざりしはけだし心に大に信ずる所なくんばあらざるなり。(二月十四日)」

(続く)

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