『美作の野は晴れて』&『138億年の日本史』&『岡山(美作・備前・備中)の今昔』

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◎一二二の一『138億年の日本史』田沼政治

2017-05-15 21:41:40 | Weblog
一二二の一『138億年の日本史』田沼政治

 18世紀の中頃から後半にかけての時期は、幕政上、田沼意次(たぬまおきつぐ)による政治と、その次の寛政の改革により知られる。まずは田沼で、1786年(天明6年)までのおよそ20年もの間、 幕府老中(ろうじゅう)として幕政を主導した。その子の意知(おきとも)も若年寄(わかどしより)へ昇り、親子でそろい踏みの出世をしたことで、幕政の上では珍しいケースだといえる。
 田沼は、1751年(宝暦元年)に10代将軍家治の側衆(そばしゅう)になったのを皮切りに、1767年(明和4年)には御側御用人にすすみ、その2年後には老中に取り立てられる。その特徴は典型的な経済官僚であり、幕府の財政強化に辣腕を発揮した。その1は、年貢の増収である。耕作面積を拡大するために、いろんな事業を興す。印旛沼(現在の茨城県)の水田開発事業もその一つであった。
 これについてのそもそもは、1666年(寛文6年)に幕府でも印旛沼(いんばぬま)・手賀沼(てがぬま)の新田開発を目的として、利根川を開削し布川・布佐の狭窄部を締め切り利根川を付け替える工事を行った。しかし、その3年後には再び旧流路に戻されとしまう。1783年(天明4年)になると、幕府自ら印旛沼の水と合わせて検見川に排水し新田をつくる計画をつくる。手賀沼の部分の工事は、1785年(天明6年)に完成する。これで、先につくられていた手賀沼新田は復興の兆しがみられたものの、再び洪水により水害に襲われたことと、田沼意次が失脚したため完成を見ないまま中止されてしまう。一方、北に向かっては、『赤蝦夷風説考』を著した工藤平助らの意見に耳を傾け、蝦夷地(北海道)の直轄による開拓を計画し、幕府による北方探査団を派遣するなど行った者の、実現に漕ぎ着けるまでには至らなかった。
 その2としては、事業のための資金を商業資本や高利貸資本に求める政策をとっていく。しかし、かえって幕政は贈賄がはびこり、政治の腐敗が進んでいくことになる。この時期には、諸藩においても、領国から米やその他の作物を大坂の蔵屋敷に運んで、天下の台所たる大坂の市場で換金する傾向が顕著になってくる。その諸藩の大坂蔵屋敷の数は、1747年(延享4年)時点で、九州、四国及び中国を中心に103にのぼっていた。こうした商品経済の発展状況に着目したのであろうか、かれは株仲間を公認した。これにより問屋などの商人の便宜を幕府が「お墨付き」として与える見返りに、運上金や冥加金(みょうがきん)の取立てで財政収入の増加をはかった。
 その3としては、貿易で、田沼の外交政策は、今日で言うところの「改革開放」にあった。そのとっかかりは、1715年(正徳5年)に6代将軍とその参謀の新井白石が、国際貿易額を制限するために制定した海舶互市新例を緩和するなど鎖国政策を緩める。長崎貿易を緩め、俵物などの商品作物を奨励しつつ、海外の物産や新技術の輸入を図る。めずらしいところでは、8代将軍吉宗の治世時に漢文書籍の輸入を許可した事績に習ってか、『解体新書』の出版を奨励したりしている。果ては、ロシアとの交易も模索していたようだが、企画の域を出ないうちに失脚の時を迎えた。
 さらに、田沼期には貨幣政策においても新たな方向がみてとれる。これについては、幕府財政の補填をしたい、通貨需要の増大にも応えたいということであった。その際には、輸出需要の旺盛であった銅に代わって、銀を用いることを考えた。具体的には、田沼とその部下である勘定「明和二朱銀」(南鐐二朱銀)として発行した。それには、これの8枚を小判1両に兌換できるという意味の表記があった。材質を「元文銀」(1736年(元文元年)から通用開始された丁銀の一種で秤量貨幣銀貨)と比べると、元文銀だと60匁(もんめ)が金貨1両の値打ちなのが、この明和二朱銀になると8枚重ねて金貨1両に相当するのを約すものとしてつくられた。これだと、改鋳を通して「出目」と呼ばれる多額の貨幣発行益(シニョレッジ)を得ることができ、通貨需要増大に応えることができる、さらに金貨との間で融通性のある銀貨(「金貨単位計数貨幣」といわれる)が社会に流通することで、通貨単位が1本に系列化できることにも繋がるというメリットがあった。
 田沼意次の権勢がいかほどのものであり、彼による政治がいかに賄賂政治の温床をつくっていたかを伝えるものに、『甲子夜話』(かつしやわ)があり、それにはこうある。
 「先年田沼氏老職にて盛なる頃は、予も廿許の頃にて、世の習の雲路の志も有て、屡彼の第に住たり。予は大勝手を申込て主人に逢しが、その間大底三十余席も敷べき処なりき。他の老職の座敷は大方一側に居並び、障子などを後にして居るが通例なるに、田沼の座敷は両側に居並び、夫にても人数余るゆへ、後は又其の中間にいく筋にも並び、夫にても人余り、又其の下に横に居並び、其の余は座敷の外通りに幾人も並び居ることなりき。その輩は主人の出ても見えざるほどの所なり。其の人の多きこと思ひやるべし。さて主人出て客に逢ときも、外々にては主人は余程客と離れて座し、挨拶することなりしが、田沼は多人席に溢るるゆへ、ようようと主人出座の所、二三尺許りを明て客着座するゆへ、主人出て逢ときも、主客互に面を接する計なり。繁昌とはいへども、亦不札とも云べきありさまなり。(中略)予は大勝手の外は知らず、中勝手・親類勝手・表座敷等、定めて其の体は同じかるべし。当年の権勢これにて思ひ知るべし。然ども不義の富貴、信に浮雲の如くなりき。」(『甲子夜話』:肥前平戸藩主松浦静山による随筆)

(続く)

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