(229)『自然と人間の歴史・日本篇』1927年金融恐慌

2017-08-09 06:58:47 | Weblog
(229)『自然と人間の歴史・日本篇』1927年金融恐慌

 経済面では、1927年(昭和2年)春には、未曾有の規模での銀行恐慌が顕在化した。この背景として、第一次世界大戦後の不況の長期化と、1923年(大正12年)の関東大震災被害による経済への影響があった。この不況には、この大戦によるヨーロッパ市場を荒廃があり、日本からの輸出は低迷した。日本の貿易収支は、1918年に2億9396万円の輸出超過を記録したのもつかの間、その翌年には一転して7459万円の輸入超過となり、1920年(大正9年)に3億8778万円の入超、1921(大正10年)に3億6132万円の入超、1922(年)2億5286万円の入超と大幅な赤字が続いた。
 その5年後の1927年(昭和2年)3月、帝国議会(第52回)は1923年(大正9年)の関東大震災の際支払猶予令を適用された手形関連法案を審議していた。このことを金融当局である『日本銀行八十年史』(日本銀行刊行、1962年)はこう伝えている
 「すでに日本銀行においても金解禁が必要であることを認めていたものの、なにぶん大正九年の反動以来金本位制度の固定貸を行い、ことに昭和2年の金融恐慌に際する特別融通以来この傾向は決定的となったため、即行論にはしばしば反対してきたが、補償法による特別融通期間満了後は、貸出の固定貸を可及的に帽子する一方、恐慌後の金融市場における過剰資金を回復するため四億四千万円に上る公債の売却操作を行う等々着々準備を進めた」と。
 ここにあるように、「震災手形」と呼ばれるこの手形の最終期限が1927年(昭和2年)9月となっているのに迫られる形で、日本銀行の融資総額約4億3千万円の未決済額約2億1千万円を政府の肩代わりすることによって処理しようとしていた。ところが、興味深いことに、審議の過程で、片岡蔵相がつい口を滑らして、在京の中小銀行の営業内容が危殆に瀕していると告げてしまう。これに市場は敏感に反応し、3月には東京渡辺銀行、あかぢ銀行など中小銀行に取付け騒ぎが広がった。
 この第一波の金融混乱は、日本銀行の特別融資などの金融安定化措置でひとまず沈静化に向かった。ところが、4月に入るや、今度は政府の銀行の一つである台湾の台湾銀行も多額の震災手形を保有するとともに、営業内容も極めてよくないことが顕在化したのであった。同行の放漫経営の背景には、鈴木商店などに過度の融資を行っていたことが災いしていた。これを救済しようと若槻内閣は、憲法8条及び70条による台湾銀行救済のための緊急勅令案を意図する。ところが、これが枢密院に、並びに本会議で否決されてしまう。これによって、全国銀行の自発的一斉休業などの銀行の休業が相次いだ。ここに全国規模の「金融恐慌」となり、若槻礼次郎内閣は倒壊した。代わった政友会の田中内閣の高橋蔵相の下、経営の苦しい金融機関への支払延期令、日本銀行の特別融資や、台湾の金融機関に対する資金融通を可能にするための法律施行などの措置が講じらる。それらの効果により、どうにかこうにか収拾に向かったことがある。

(続く)

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