(240)『自然と人間の歴史・日本篇』ファシズム前夜の全国各地の様子(都市)

2017-08-09 08:20:34 | Weblog
(240)『自然と人間の歴史・日本篇』ファシズム前夜の全国各地の様子(都市)

 1921年(大正10年)6月25日から8月9日にかけて、神戸市にある川崎造船所3工場((本社、兵庫、葺合)と三菱3社(造船、内燃機、電機)の労働者が労働争議に立ち上がる。約3万人が参加したとも言われる。第二次大戦前の日本最大規模のストライキであって、「川崎・三菱争議」と呼ぶ。三菱内燃機神戸工場の約500名が労働組合を組織し、 「横断組合の承認」 と 「団体交渉権の確認」 を含む嘆願書を会社へ提出したことで、争議が始まる。会社側は 「嘆願書の形式が整っていない」 と、これをはねつけ、交渉委員を解雇した。これをきっかけに労使関係は不穏になり、双方にらみ合いのまま労働組合はストライキ状態にはいっていく。川崎造船では、6月27日に支給された賞与と創業二十五周年特別分配金をめぐって労使が対立したのを契機に、労働者側の年来の不満が爆発する。 
 三菱内燃機神戸工場の五百名が労働組合を組織し、「横断組合の承認」 と 「団体交渉権の確認」 を含む嘆願書を会社へ提出するに至る。会社側は 「嘆願書の形式が整っていない」 と、これをはねつけ、交渉委員をクビにした。これをきっかけに労使関係は不穏になり、労働組合はストライキ状態にはいっていく。川崎造船では、6月27日に支給された賞与と創業二十五周年特別分配金をめぐって労使が対立し、やはりストライキ状態に入っていく。労働者側は 『団体交渉権の確認』 と 『手当支給』 に関する要求書を会社側に突きつけたが、労働者側は 『団体交渉権の確認』 と 『手当支給』 に関する要求書を会社側に突きつけたが、会社側はこれを拒否したことで労働側がストライキにはいっていく。この争議の一コマを、当時の大阪毎日新聞から拾うと、こうある。
 「川崎は専制主義一点張り=諸種の設備も不完全なら職工待遇の上にも改善すべき余地が十分あると佐藤農商務省工場監督官の痛棒
 神戸の労働争議に関し農商務省から急派した佐藤工場監督官は数日間に亘り川崎、三菱両工場の工場設備、職工待遇、罷業及び怠業に伴う生産状況等を調査中であるが二日午後川崎工場の大体調査を終えて左の如く語る 。
 今後調査上の都合あるから断言することを憚るが、川崎工場は一体に専制主義一点張りであって、会社側が頭から労働者の人格を認めない為め労資相互の間に当然起らねばならぬ筈の温情的気分が一向漂うて居らぬようである。今回労働争議の真因に関し会社側の談を聞くと、労働者全部の自発的要求と認め得るものは全く皆無で他の誘惑に依ってタダ無自覚に雷同するのみであると云うことであるから然らば果して労働者全部の中で比較的誘惑性に富む独身労働者が多いか、それとも誘惑性に乏しい有配偶労働者が多いか否かを調査するの必要があるので其材料を求めようとする工場側では未だ其調査さえも出来て居ないとの事に驚いた、更に同工場職工平均賃金一箇月七十四円は他の一般工場に比しやや高率であるようだが、然しソの反面に労働者の食堂もなければ寄宿舎も運動娯楽場もなく設備頗る不整頓である。
 蓋しコレ等の設備不完全は工場周囲の地域狭隘な関係もあるから幾分参斟し得るとしても、職工の待遇方法を周密に考査し平常の不平不満等を適宜に緩和すべき最も十台な責任を有する職工取締を漸く昨年から設置した位だから、如何に待遇上改善の余地あるかはコノ一事でも窺われるではないか。尚造船工の異動が非常に頻繁で勤続一箇年も経ずして他に転々して居るがコノ点に就ても大に攻究の余地がある。」(大阪毎日新聞、1921年(大正10年)8月3日付け)
 1927年から1928年にかけて、千葉県野田の野田醬油(現在のキッコーマンの前身)の労働者約2000人が労働争議に立ち上がる。1921年に日本労働総同盟(略称は総同盟)(総同盟)の組織(総同盟関東労働同盟会醸造労組野田支部)が作られていた。彼らは、1923年、1925年に会社へ要求を提出し、ある程度要求を実現させていた。そして迎えた1927年4月、労働者側が賃上げを要求すると会社側は組合の破壊を企図するに至る。暴力団と町の諸機関を利用して弾圧を加えたのだ。労働側は、9月からストライキに入って抵抗する。会社は、労働者1047名を同年末に解雇した。労働者はストライキを継続したが協調会が調停に入った。1928年4月に300人の再雇用と諸手当支給をもって妥結に至る。216日間に及んだストライキであった。これを野田醤油争議(のだしょうゆそうぎ)と呼ぶ。
 1937年(昭和12年)、加藤勘十・鈴木茂三郎・山川均・荒畑寒村・猪俣津南雄などが検挙される。これを第一次の「人民戦線」と呼ぶ。これにより、日本無産党は解散に追い込まれる。翌年には、大内兵衛・有沢広巳・美濃部亮吉ら「労農派マルクス主義」に属する教授グループなども検挙される。これを第二次の人民戦線事件と呼ぶ。いずれも、かれらが「人民戦線結成を企てた」というのが理由とされる。それにしても、四百余名もの検挙が出たのは、異常であった。民主主義勢力が「政治的統一戦線へ」(山川)のスローガンを掲げることで、「帝国主義反対」の主張が民衆と結びつくことを怖れたことがあろう。政府は、かれらと政治的に切り離すべく、国民への影響力を根絶やしにするべく、相当の気合いを入れて断行したのであろう。国家総動員法に象徴的に現れていたように、外国侵略を前提した大東亜共栄圏の建設という「大義名分」のためには、もはや言論弾圧の手段は選ばない。国内でどんな人権侵害を挙行もしても構うものかとの空気が、当時の朝野に醸成されつつある中でのセンセーショナルな事件であった。
 
(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« (239)『自然と人間の歴... | トップ | (241)『自然と人間の歴... »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL