『(22)』『岡山の今昔』江戸時代の三国(新本義民騒動など)

2016-12-23 19:54:26 | Weblog
『(22)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(新本義民騒動など)

 それは、江戸中期の備中での事件であった。岡田藩(今の倉敷市真備町に陣屋があった)が領していた同国下道郡新庄村・本庄村(現在の総社市新本(しんぽん)地区)を舞台に、1717年(享保2年)、第5代藩主・長救の時代、この地の領民による一揆が勃発する。そのあらましだが、年貢の中心である米の税納を巡ってのものではなく、入会地である山を管理を巡っての領主と農民との争いであったところに、その特徴がある。これを「新本義民騒動」(しんぽんぎみんそうどう)と呼ぶ。
 このあたりの土地柄については、中世の頃、備中のこのあたりには下道郡と賀夜郡があった。このうち下道郡の方は、現在の総社市の北西の山岳地帯を含んだ地域に当たり、上代末期から中世にかけては、田上荘(たがみそう)と呼ばれる荘園であった。より細かくは、高梁川の支流である新本川を間に挟んで南側に本荘(本庄)、北側に新荘(新庄)とがあり、この二つをあわせて「新本村」と呼ばれた。戦国時代から安土桃山時代にかけては、毛利氏の所領となっていた(豊臣秀吉の高松城水攻め後の高梁川西岸は毛利領、東岸は宇喜多領に仕分けられる)。1615年(元和元年)、伊東長次がこの地に入封して来た。その伊東氏は、同年の大阪の陣まで豊臣方に属していたことで知られる。その夏の陣では、大阪城から出陣し、城に帰るも徳川方の兵に包囲されていて近づけず、入城を諦め、高野山にのぼって謹慎していたのが、同年中に、徳川家康に罪を許され、石高1万343石を与えられ、立藩する。入封した岡田藩の領地として、真備町の旧矢田村(岡山領)を除く全てと 玉島の旧陶・服部村、総社市の旧新本・水内村で十ヶ村と美濃国・河内国・摂津国に五ヶ村があてがわれた。
 さて、この一揆に至るまでの過去を顧みると、そもそもこの地域においては、新庄村と本庄村の村人の暮らしにとって大事な、大平山と春山という山がある。ここに代々住む人々は、このあたりの山野で昔から計画的に草や木を採ってきていた。草は、田や畑の肥料にしたり、牛や馬の餌にすることができる。雑木を伐採しての薪(まき)や落ち葉の類は、日常生活(ごはんやふろたきなど)の燃料に有用であった。領主側の岡田藩は、こうした周辺の村による「入会地」を、少なくとも黙認してきていたのではなかったのか。ところが、1661年(万治4年/寛文元年)頃より、この岡田藩の領内で大いなる変化、すなわち一方的な入会山(いりあいやま)の藩有化・「留山」(とめやま)といって、同藩は村民の入山をだんだんに厳しく禁じていく。この留山は、元はといえば、樹木や森林の福利作用を保全する目的から一定の山林の樹木の伐採を禁じるものであり、奈良時代に始っている。藩は、あえてこの制度に該当地域を組み込もうとした背景には、何があったのだろうか。同藩の藩士とその家族が使用する燃料等の調達等の必要だけでは、説明がつかないではないか。
 村人の受難はそればかりではなかった。それ約50年後の1717年(正徳6年/享保元年)の春先になると、藩当局は突然、残されていた共有山であった新庄村の大平山そして本庄村の春山の大部分をも取り上げるに至った。あわせて、造林を伐採し、割り木・用材とし、それを藩庁のある同郡岡田村(現・倉敷市真備町岡田)まで運搬することを村民に命じた。しかも、それに支払われる労賃たるや、1駄(約42貫)当たり4分5厘という低額なのであった。
 これら一連の措置による生活圧迫に困った村人たち(その頭数は新庄・本庄両村民で約2百名とされるか)は、会合を開き、対策について話し合ったのはいうまでもない。ついに、留山とされた山の返還と、割り木・用材運搬の中止を嘆願することを決意する。それらを主な内容とした三箇条の嘆願書を作成し、これを岡田藩の役人に提出し、抵抗するのであった。これに対して藩は、抵抗する者は岡田藩の百姓とは認めないなどと脅しを掛け、良心的な庄屋と組頭についても牢につなぐ暴政ぶりであった。その後事態が膠着していたところへ、川辺村(今の真備町川辺)の蔵鏡寺などの住職たちの斡旋があった。話し合いで、新庄村の殿砂から本村にいたる山野を開放し、下草などを採ってもよい、という案をまとめてくれた。同年旧暦3月15日、村人たちはこの案を受け入れの是非を決めるため総集会を開き、この案を受け入れることにし、直ちに誓約書が作られた。
 ところが、これで一件落着とはならなかった。1718年(享保3年)に入るや、藩当局は、村の持ち山に開放された山林での木の伐採についても、「たとえ村の持ち山であっても、許し無く入って木を切ってはいけない。そのことは盗みになる」といいがかりをつけてきた。そこで窮した村人たちが、このまま黙って死を待つよりも、江戸に出向いて同藩の江戸屋敷に直訴して事態を切り開こうということで、衆議一決する。なにしろ江戸は遠くにある。その江戸行きには、松森六蔵、甚右衛門、川村仁右衛門、森脇喜惣次の4名が選ばれた。
 この4人は、同年旧暦3月1日に新本を出発して18日目に無事江戸に着いた。そして岡田藩主伊藤播磨守長救(いとうはりまのかみながひら)に直訴を果たした。その後、かれらは罪人としてとらえられ、旧暦5月25日に岡田に到着。享保3年旧暦6月7日、4人は新本飯田屋河原で処刑された。また5名が追放処分となったという。その後、彼らの命の代償に、村の持ち山のほとんどの山野に自由に出入りできることになったと言われる。この一揆の仔細について、なぜ幕府に訴え出なかったのかなどわからない点がなお多いものの、当時の同藩の政治向き中枢に農民達の心を某かでも受け取ることのできる人物がいたならと、口惜しく感じる人も多かろう。
 それから二百余年を経た明治維新後、同藩は他の藩同様になくなり、「岡山県下道郡」に衣替えしていたのが、1900年(明治33年)4月に隣の賀陽郡と合併して吉備郡(きびぐん)となる。1954年(昭和29年)3月には、吉備郡の中の総社町、新本村、山田村、久代村、池田村、阿曽村、都窪郡常盤村の1町6か村が合併し総社市とな理根現在に至る。なお、上代以来江戸時代までと、明治以降との間では、入会についての位置づけが替わっていることがあり、例えば次のような整理が為されているところだ。
 「(中略)これに対し江戸時代の村はその村民の人格と全然分離独立した抽象的な人格者ではなく、各村民によって組織され各村民の人格によって支持された村民全体の総合体であり、村の人格とその成員である住民の人格が不即不離の関係にあった総合人であったということになる。「村」「村役人及惣百姓」「百姓総体」であった。ここに今の村有林と昔の村持の山との性格の相違がある。」(埼玉県比企郡嵐山町編『嵐山町誌』第6巻)

(続く)

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