(249)『自然と人間の歴史・日本篇』戦争の行き着く先(戦況は劣勢へ1)

2017-08-09 08:56:56 | Weblog
(249)『自然と人間の歴史・日本篇』戦争の行き着く先(戦況は劣勢へ1)

 とはいえ、アメリカとの彼我の軍事的、経済的な劣勢は加速しつつあった。1942年(昭和17年)8月、ソロモン島での二度の海戦(特にガダルカナル島の争奪戦)で日本海軍がアメリカ軍に敗退し、日本側は多くの船舶と兵員を失った。1942年(昭和17年)4月には、東京に初めての空襲があった。太平洋上の米空母ホーネットから飛び立ったB25双発爆撃機の16機が飛来して、爆弾を落としていったのである。1943年(昭和18年)2月初めには、最南方のガダルカナルから日本軍が撤退を余儀なくされる。この南大平洋ソロモン諸島の激戦地、ガダルカナル島からの撤退作戦では、約1万人の将兵が、海軍の駆逐艦の援護を受けながら、同じソロモン諸島のブーゲンビル島に移った。ブーゲンビル島では米軍の激しい空襲があったり、物資を運ぶ輸送船が米軍機の攻撃を受けて次々に沈没していった。ところが、日本ではこれを国民に負け戦とは言わず、「戦略的転進」とか、「至妙なる後退展開」としか伝えなかった。当時、この撤退作戦に参加していた萩原卓さん(93歳、千葉県在住)は、こう述懐しておられる。
 「ー中略ー将兵の姿は惨めだった。汚れて灰色に変色したボロボロの服。負傷兵の包帯は、あり合わせのボロ切れ。多くが、やっと歩けるかどうかという疲労困ばいの極みにあった。壊れた銃や棒切れが杖であった。銃を持っている者は4分の1もおらず、まともな銃は皆無。軍刀で身を支える将校もいた。」(朝日新聞、2015年8月16日付け)
 続いて同年、ソロモン群島とニューギニアを中心に両軍の攻防が起こり、アメリカの空母が展開するに至る。1944年(昭和19年)にはマリアナ群島のサイパン島(7月、これより前の6月にアメリカ軍が上陸していた)、フィリピンのレイテ島の日本軍が陥落し、それからは米軍機の日本本土へのB29戦略爆撃機による空襲が頻繁になる。
 1944年(昭和19年)には、日本軍の中国戦線での展開は手詰まりの状況となっていた。同年3月から7月初旬にかけては、蒋介石の国民党軍への援助ルートを遮断すべく、インド北東部のインパールとインド・ビルマ国境の掌握を目指したが、数万人の犠牲を出して失敗した。ゆえに、このルートは日本軍の「白骨街道」とも言われた。おりしも環大平洋域においては、マリアナ群島のサイパンにアメリカ軍が上陸するに至る。この年の初めには、連合艦隊の基地のあるトラック諸島がアメリカ軍の大空襲を受けて、使いものにならなくされていく。6月、マリアナ群島のサイパン島にアメリカ軍が上陸する時、日本野海軍は壊滅的な打撃を受けた。アメリカはそこに飛行場をつくり、本土空襲を飛躍的に増大させた。その頃までには、海洋国日本の持てる船舶数は大きな減少を辿っていた。1941年(昭和16年)12月での年間の新造船・その他は44隻、喪失が52隻、年末の保有量が6376隻であったのが、1944年(昭和19年)になるとそれぞれ465隻、1502隻、2564隻へと減っていた(安藤良雄編「近代日本経済史要覧(第二版)」東大出版会、1979年)。
 このようにして日本の南方航路が途絶したのを機に、1944年(昭和19年)半ばには、政治の中枢部においても敗戦の見通しが半ば公然のものとなっていく。東条内閣が退き、小磯内閣が代わった。その頃の国民にはひた隠しにされた軍需省の戦力判断に次の下りがある。軍需省当局が最高戦争指導会議に提出した。この報告は、1944年(昭和19年)8月時点のものである。
 「大東亜戦争勃発以来、物的国力は開戦直前の見透に対し、主として敵潜水艦に依る船舶の損害予想外に増大し、造船量を遙に突破して、保有船腹は大幅に逓減せる上に、累次に亘るAB(陸海軍)の船舶増徴に依りC(民需)船輸力の激減せると一方・・・・・在庫物資よりの給源枯渇に依り逐年減少せり。然れども国民生活を中心とする民需部門の犠牲により、漸増せる軍需を充足し来れるも、既に現状に於いて主要食糧は一応確保し得るも、爾余の諸産業は全面的に操業を短縮若は中止せられあるの実情にして、徹底的に重点を形成せる軍需生産に於いても、十九年度初頭を頂点として爾後は低下の傾向にあるを否定し得ず。又現状程度の国民生活を維持することも逐次困難となる趨勢に在り、即ち戦争第四年たる十九年末には国力の弾撥性は概ね喪失するものと認められる。」
 要は、もはやこの戦争を継続することは困難になりつつあることを、はからずも認めるものとなっている。
 とはいえ、戦争の巨大な歯車は止まらない。国内では、軍需を優先した生産が続けられていた。学徒動員で学生さえ戦線にかり出される中で、その後方で軍需などの生産活動に従事していたのは、「女子挺身隊」などの名目で徴用された女性たちばかりではあるまい。1943年(昭和18年)には、勅令600号「国民徴用令」改正を受けて、9月30日付けの朝鮮総督府令第305号「国民徴用令施行規則改正」によって、朝鮮での「徴用」が法的に可能となる。翌1944年(昭和19年)8月には「半島人労務者の移入に関する件」が閣議決定される。これによる朝鮮人労働者の徴用がいかほどの人数に上ったかは、諸説紛々として決着がつく見込みにない。今日まで半ば不毛の議論が続いているのには、上から目線の論考が多いことも預かっているのではないか。ここでは、絵本作家の安野光雅さんへの雑誌『母の友』のインタビューから掲載させていただく。
 「戦時中は、九州の炭鉱で働きました。八幡製鉄のある九州は、軍需産業のメッカでしたからね。八幡製鉄が鉄をつくるために、石炭を掘る。もう命がけで増産していましたよ。それが鉄砲や弾丸になるわけだから。
 徴用令をかけて、朝鮮から何万人もの労働者を連れてきました。優秀でハンサムなのが多かったね。日本人は繁華街で警察に捕まって連れてこられた与太者(よたもの)が多かったけど、日本人だからということで、ちょっと高尚な仕事をさせられる。朝鮮人からすると面白くないから、けんかになるんだよね。ぼくは親方みたいな係をしていた。なぜかというと、ぼくより年が上の人は戦争に行っちゃってもういないから、恐ろしい時代ですよ。」(安野光雅「伝記のなかったころの日本へ」:『母の友』2013年8月号の特集「それぞれの、戦争ーあの日を生きた女性たち」により引用させていただきました)
 おりしも、1944年(昭和19年)8月、マリアナ群島の日本軍が壊滅した。戦況は、軍部にとってはいてもたってもいられない。どのようにしたら、「大東亜共栄圏」とやらで拡大し、途方もなく延びきった戦線を立て直すことができるのかもわからない、
 明くる1945年(昭和20年)の1月から2月にかけては、フィリピンのルソン島、硫黄島など日米の激戦が繰り広げられる。特に、2月19日~3月26にまでの硫黄島の戦いでは、日本の守備兵2万933名のうち2万129名までが戦死した。日本軍が玉砕した後は、アメリカ軍はこの島からB451戦闘機の護衛をつけてB29戦略爆撃機を昼間の本土爆撃に出撃できるようになったことがある。
 こうして軍国主義の日本を巡る戦況は、刻一刻と深刻の度合いを加えていくのであった。そしていよいよ南方の航路がついに途絶されたとき、東条内閣は瓦解し、小磯内閣に替わった。当時、軍需省に吸収されていた企画院が企画立案し、軍需省当局が最高戦争指導会議に提出した文章の一節を読むと、そこにあるのは「もはや、敗北は時間の問題」という客観的認識に尽きる。
 「大東亜戦争勃発以来、物的国力は開戦直前の見透に対し、主として敵潜水艦に依る船舶の損害予想外に増大し、造船量を遙かに突破して、保有船腹は大幅に逓減せる上に、累次に亘るAB(陸海軍)の船腹増徴に依り逐年減少せり。然れども国民生活を中心とする民需部門の犠牲により、漸増せる軍需を充足と来たれるも、既に現状に於いて主要食糧は一応確保し得るも、爾余(じよ)の諸産業は全面的に操業を短縮若しくは中止せられあるの実情にして、徹底的に重点を形成せる軍需生産に於いても、十九年度初頭を頂点として爾後は低下の傾向にあるを否定し得ず。又現状程度の国民生活を維持することも逐次困難となる趨勢に在り、すなわち戦争第四年たる十九年末には国力の断撥性は概ね喪失するものと認められる」とある。
 こんにち私が残念に思うのは、当時の一般の国民なり、兵士が、そうした事実を知らされないで、なおも展望のない戦争に駆り立てられ、いたずらに死者を重ねていったことである。この戦争による日本側の人的被害は、戦死者が約212万人、空襲などで死者30万人以上が数えられる。空襲などには、1945年3月10日の東京大空襲で約10万人が死んだり、広島、長崎への原爆投下で十数万人を越える犠牲者が出たこと、沖縄戦で多くの非戦闘員の犠牲者が出たことなどがあり、さぞかし無念であったろうと、後に生きる者としてはいずれも同胞として頭を垂れるほかはない。ここに「戦争第四年たる十九年末には国力の断撥性は概ね喪失するものと認められる」というのなら、まともな頭で考えるかぎり、後はどのような形で負けるのかとならざるを得ない。負けるのが確実な状況に立ち至ったのなら、当時の最高指導部の一番の仕事は万難を排して「降伏」することではなかったか、そのことによって救われた命は極めて多かった筈ではないか、ゆえに昭和天皇をも含めた当時の戦争指導部の責任は極めて重い、このことである。

(続く)

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