♦️614『自然と人間の歴史・世界篇』ブラジル(1960年代)

2017-10-15 21:20:01 | Weblog

614『自然と人間の歴史・世界篇』ブラジル(1960年代)

 1951年から1961年まではジュセリーノ・デ・オリベイラ・クビチェック大統領。1961年1月から1961年8月まではジャニオ・ダ・シルバ・クワドロス大統領。そして同大統領が辞任した後の1961年8月、民主選挙の先例を受けて副大統領職に就いていたジョアン・ベルチオル・マメケス・グラールが大統領に昇格する。こうした経緯については、歴史家により、次のように解説される。
 「陸・海・空の三軍大臣は、彼を左翼的すぎるとみて大統領昇格に反対した。他方、各地でグラール支持の集会やデモがおこなわれた。グラールは、中国から直接郷里のリオ・グランデ・ド・スル州に戻り、義兄の州知事レオネル・ブリゾラとともに、同州駐屯の連邦三軍を動かし、内戦も辞さない構えを示した。
 結局1961年9月1日、国会は46年憲法に修正条項を加え、大統領権限のかなりの部分をあらたに国会で選出される首相に委譲するするという条件をだし、軍首脳もグラールの大統領昇格に同意し、7日にグラールが大統領になった。グラールは大統領権限の全面回復に全力をあげ、63年1月に国民投票がおこなわれ、投票の8割がグラールの意図を支持した。」(増田義郎編「ラテン・アメリカ史Ⅱ」山川出版社、2000)
 さて、1961年8月から1964年3月まではジョアン・ベルチオル・マメケス・グラール大統領であった。彼は、その在任期間中にブラジルをより豊かで、民主的な国にするべく、次のような政策を推し進めようとする。その1は、経済改革、その2は農地改革、その3は民主的権利の拡大、その4は共産党の合法化といった具合であった。1964年3月14日、彼はリオでの大衆集会において、総小作料の安定、共産党の合法化、投票権の文盲者への拡大を議会に要請することを発表する。
 その後に、二つの法令に署名をおこなう。
 その一として、連邦政府のハイウェイ、鉄道その他の公共事業に隣接する、6マイルの距離内にあるすべての遊閑地を没収すること。その二として、いまだ石油国有会社ペトロブラスの所有になっていないブラジル資本の石油精製所の国有化を行う。
 1964年になると、ブラジル政府に対しアメリカは緊縮政策をとるよう要求したものの、ジョアン・ベルチオル・マメケス・グラール大統領が聞き入れなかったため、両国の関係は急速に冷えていく。
 のみならず、同大統領は、農地改革と外国資本規制の計画を発表し、キューバ政府を承認し、さらにインフレの勢いが止まらなくなる中アメリカの資産の接収に向かうことで、アメリカの思惑と利益に対抗する動きを見せる。これらがアメリカを痛く刺激することとなり、アメリカ政府は3月27日、ついにコーン、ラスク、マクナマラを初めとする政府首脳部に、陸軍参謀長ウンベルト・カステロ・ブランコ将軍を支援して大統領を失脚させるべだと要求したのであった。
 1964年4月1日、ウンベルト・カステロ・ブランコ将軍による軍事クーデターが起こり、ジョアン・ベルチオル・マメケス・グラール大統領は辞職に追い込まれる。4月11日、国会は将軍を大統領に選出し、アメリカがテコ入れをしたことで現実のものとなった軍事クーデターを追認するにいたる。歴史家によって、こう書かれる。
 「1961年4月、軍の革命最高司令部は軍政令第一号を公布し、多くの公務員、軍人、民間人を解雇し、政治権を奪った。46年憲法を存続させつつ、66年1月31日まで有効の、多くの例外規定が定められた。」(増田義郎編「ラテン・アメリカ史Ⅱ」山川出版社、2000)
「1965年10月、同政権は軍政令第二号を公布し、大統領の間接選挙制、既存政党の解散と二大政党、すなわち与党の国家革新同盟党(ARENA)への再編成をおこなった。野党と言っても政府にとって危険な政治家はすでに政治権を剥奪されており、与党の優位は保証されていた。さらに66年2月の軍政令第三号は、州知事・同副州知事の間接選挙制を定め、連邦政府は州政府に介入する権限をえた。」(増田義郎編「ラテン・アメリカ史Ⅱ」山川出版社、2000)
 1967年3月からコスタ・イ・シルバ元帥が大統領に就任しました。これは1969年8月まで続く。1968年、メキシコ五輪直前に学生暴動が起き、約500人が死亡するという惨事となる。その後は、エミリオ・ガラスタズ・メディシ(1969年ー74年)、エルネスト・ガイゼル(1974年3月発足-79年)と軍事政権が続く。エルネスト・ガイゼル政権は1978年、事前検閲と軍政令とを全廃する。

(続く)

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♦️613『自然と人間の歴史・世界篇』中南米(1960年代)

2017-10-15 21:17:14 | Weblog

613『自然と人間の歴史・世界篇』中南米(1960年代)

 1960年代の中南米の経済がどのようであったかについて、宮崎義一氏の論考から引用させてもらいたい。
 「すでに150年前にスペイン、ポルトガルから政治的独立を終えたラテン・アメリカの現状はどのようなものか。コロンビアではわずか2.6%の裕福な人口が40%の所得を占め、プエルトリコでは10%の上層の人々が44%の所得を得ている。ヴェネズエラでは3%の大地主が74%の土地を有し、ブラジルとチリでは2%の地主が耕地の50%を占め、エクアドルでは0.2%の地主が33%の土地を所有する。「ラテン・アメリカ全体では15%の人口が耕地の65%を独占している。この寡頭特権層は、ユナイテッド・フルーツ、ベツレヘム・スティールら外国、とくにアメリカの巨大独占資本と結びついて権力の座を確保している」(四宮圭「第三世界の政治経済学」『エコノミスト』1966年2月15日号)。」(宮崎義一「現代の資本主義」岩波新書、1967)
 これは、いわゆる「南北問題」とされた。その行方について、スウェーデンの経済学者ミルダール(K.G.Myrdal)が提出した命題(1957年)には、こう論点整理されている。
(1)現状は、世界にはきわめて豊かな国と、極端に貧しい国との、それぞれの集団が存在している。
(2)豊かな国の成長の道筋はきちんと示されているのに対し、貧しい国の経済発展は極めて緩慢である。
(3)最近数十年の間に先進国と低開発国との間の経済的不平等は増大の一途を辿っている。
 (参考:K. Gunnar Myrdal,Economic Theory and Underdeveloped Regions.1957.小原敬士訳『経済理論と低開発地域』1959。
 ちなみに、当時のこの地域の全債務返済額・投資収益支払額の輸出額に対する比率(1967年、1968年)は、次のようであった。
 10%以下:エルサルバドル、タイ、韓国、台湾、セイロン、スーダン、タンザニア。
10~15%:ホンジュラス、パラグァイ、フィリピン、マレーシア、エチオピア、モロッコ、ウガンダ、象牙海岸。15~20%:ペルー、パキスタン、グァテマラ、ナイジェリア、ドミニカ、ケニア、ボリビア、マラウィ、ウルグァイ、ザンビア、ニカラグァ、コスタリカ。20~25%:インド、チュニジア。25%以上:ブラジル、メキシコ、アルゼンチン、ベネズェラ、チリ、イラン。
(注)1966年以降のデータが入手不可能の場合以外は1967年、1968年のデータにより分類。(2)イランについては、公的債務の元本償還額を除く。資料:Report of the commission,Ⅱー11
(梶谷善久「ベトナム戦争をめぐる国際関係」:大内兵衛・向坂逸郎編「体系 国家独占資本主義」第2巻、河出書房新社、1971に所収)
 特に、ブラジル、メキシコ、アルゼンチン、ベネズェラ、チリ、イランについては、1967~68年には、輸出の25%以上を借金と利子の支払いにあてなければならなくなっている。
 1960年、にラテン・アメリカ自由貿易連合設立条約 (モンテビデオ条約)が締結され、 それに基づきラテン・アメリカ自由貿易連合 (英語の略語 「LAFTA」 ) が創設された。 当初のLAFTA加盟国はアルゼンチン、ブラジル、メキシコ、 パラグアイ、ウルグアイ、ペルー、チリの7カ国であった。その後1967年までにコロンビア、エクアドル、ベネズエラ、ボリビアが順次加盟し、約3億人の人口を擁するまでになる。
 これは後のことだが、1980年、LAFTAにかわりラテン・アメリカ統合連合条約 (1980年モンテビデオ条約)が締結され、ラテン・アメリカ統合連合 (スペイン語の公式略語では「ALADI」) が成立し、1981年3月に発足するにいたる。ALADIには、 アルゼンチン、 ボリビア、 ブラジル、 チリ、 コロンビア、 エクアドル、メキシコ、 パラグアイ、 ペルー、 ウルグアイ、ベネズエラ、 キューバの12か国が加盟するかたわら、 EU及びスペイン、ロシア等欧州の数カ国を含む14カ国がオブザーバーになる。

(続く)

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♦️335『自然と人間の歴史・世界篇』パナマ独立とパナマ運河

2017-10-15 19:32:19 | Weblog

335『自然と人間の歴史・世界篇』パナマ独立とパナマ運河

 1501年、スペイン人バスティーダ、パナマ地峡を発見した。1821年、パナマは、大コロンビアの一州としてスペインより独立を果たす。村上堅太郎氏による、当時の国際情勢の論考から、紹介しよう。
 「1898年キューバの反乱を援助するこによってアメリカ合衆国はスペインと戦うに至った。戦闘は容易にアメリカの勝利に帰し、キューバの独立とフィリピン・グァムの米国領有が講和会議で定められた。フイリピンには英仏露等が野心を持っていたが、一方フィリピン内部にはアギナルド等の民族的独立運動があり、アメリカはこれと提携してスペインを破ったのであった。しかし国際的に孤立しつつあったイギリスはむしろドイツに対抗するためにアメリカのフィリピン併合を支持するに至り、ついにフィリピンはアメリカに帰属することとなった。この後に続いたアギナルドの反乱は1902年鎮定された。」(村上堅太郎「新訂 西洋史概要」秀英出版、1956)
 1903年、今度は、独立国パナマとしてコロンビアより分離独立を果たす。
 この建国後、有名なパナマ運河の建設が取り沙汰されるようになっていく。同氏は、こう説明される。
 「このころからパナマ運河が重要な問題となってくる。このわずか幅37里のパナマ地峡は、当然19世紀中ごろから世界の注目を浴びていたが、かのスエズ運河建設者のレセップスも匙(さじ)を投げるほどの技術的困難のために容易に具体化しなかった。しかし米西戦争後はパナマ運河の建設はアメリカにとって最も緊要な問題となった。マッキンレーはイギリスと協定して開鑿(かいさく)権を得、さらに1903年反乱によってコロンビアから独立したパナマ共和国に交渉して運河地帯の永久使用権を得た。」(村上堅太郎「新訂 西洋史概要」秀英出版、1956)
 1906年起工された運河は予想以上の悪条件を克服して、1914年にパナマ運河として完成、通行可能となり1920年に正式に完成した。

(続く)

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♦️333『自然と人間の歴史・世界篇』メキシコの独立

2017-10-15 18:50:42 | Weblog

333『自然と人間の歴史・世界篇』メキシコの独立

 1521年、エルナン・コルテスの率いるスペインの軍隊がアステカ王国を征服したことで、スペインによるメキシコの植民地支配が始まる。
 1810年、独立戦争が始まる。
 1821年、ゴルドバ条約によりメキシコは独立を達成するにいたる。政治体制としては、アグスチン・イトルビデ将軍が中心となって、帝政が敷かれる。
 1824年、帝政から共和制への移行があった。
 1862年に、フランスがメキシコを占領する。皇帝には、ナポレオン3世の親戚であるオーストリア大公マクミシリアンが就任する。そのときの軍事侵略の正当化の理由が奮っていた。いわく、「1821年のメキシコ独立以降の年月にたまりたまった未払いの債務が支払われていない」というのであった。

(続く)

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♦️332『自然と人間の歴史・世界篇』ブラジルの独立

2017-10-15 18:41:09 | Weblog

332『自然と人間の歴史・世界篇』ブラジルの独立

 かつてのブラジルは、ポルトガルの植民地であった。大西洋岸のオリンダの街は、ポルトガルの植民地時代に築かれた「砂糖の街」でした。サトウキビの栽培がこの地で始まったのは17世紀であった。そればかりではない、アフリカの黒人奴隷がこの地にも連れてこられ、過酷な労働に従事させらていた。
 ブラジルの独立には、ポルトガルは最後まで反対していた。しかし、1825年、イギリスの圧力により渋々承認するにいたる。アメリカは同年、ブラジルを承認する。おりしも、アメリカは、ヨーロッパ諸国と米国大陸の相互不干渉を唱える「モンロー宣言」を発表していた。これは、ウィーン会議後に成立した神聖同盟のアメリカ大陸への干渉を危惧して出されたものである。増田義郎氏の論考に、こうある。
 「この宣言は南アメリカ諸国の独立維持に有利な条件をつくった反面、米国の膨張主義と関連をもっていたため、のちに汎アメリカ運動の名のもとにラテン・アメリカ諸国の国際関係を制約するひとつの要因となった。」((増田義郎編「ラテン・アメリカ史Ⅱ」山川出版社、2000)
 1824年に制定された憲法は、1889年の共和革命まで効力を持ち続ける。その後、イギリスの調停により南部ウルグアイが分離独立していく。この1824年から1830年にかけては、「第一帝政期」と呼ばれる。この時期には、ポルトガル人の勢力がほぼ一掃され、ブラジルジンによる、全国的な視野に立つ同質的なエリートが形成される条件をつくったものと推察される。
 1831年から1839年にかけては、「摂政期」と呼ばれる。そり後の1840年から1864年にかけては、「第二帝政期」と言われる。1850年の奴隷交易禁止令の結果、ブラジル国内ではしばらくのあいだ奴隷制問題への関心が薄らいだ。当時の奴隷人口は200万人から400万人と推定される。農園主層は労働力供給に不安を感じていなかった。しかし、奴隷制がブラジル社会に不可欠であるという認識が、1850年代までは一般的であった、とされる。
 1864年から1872年にかけては、パラグアイ戦争があったが、1872年ブラジルは、パラグアイと講和条約を結ぶ。
 1886年にキューバで奴隷制の全廃がおこなわれた。この影響もあって、翌年にはコーヒー農業の中心地サン・パウロ県の共和党は、奴隷制完全廃止要求決議を採択した。同県のコーヒー農園主たちは、移民を雇用する方が、労賃と生産性の観点から奴隷を使うよりも有利なことを認識するにいたる。
 1888年5月13日皇帝の訪欧中に摂政にあたった王女イザベルの手で、奴隷制を即時無補償で廃止する解放令または「黄金法」が発布された。これにより、従来帝政の支持基盤だった農園主層は大損害を受けた。そして、「奴隷を担保にした有史は回収不能になり、また、窮地に陥った農園主を金融面で救済するため無制限に増刷された紙幣は、インフレーションや投機ブームを引き起こした。農業収入の不振を繁栄して、国際収支は88~90年にかけて赤字に転じた」((増田義郎編「ラテン・アメリカ史Ⅱ」山川出版社、2000)と言われる。
 1889年には、立憲民主制が克服され、「共和制」宣言が行われる。

(続く)

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♦️331『自然と人間の歴史・世界篇』帝国主義とベルリン会議など(1876~1900)

2017-10-15 17:58:40 | Weblog

331『自然と人間の歴史・世界篇』帝国主義とベルリン会議など(1876~1900)

 ベルリン会議(1884年11月15日~1885年2月26日)には、次の帝国主義列強が参加した。
 ①参加国は、植民地保有国のドイツ、イギリス、フランス、ベルギー、ポルトガル、スペイン、オランダ、イタリア、トルコ。これらに、アメリカ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、オーストリア、ハンガリー帝国を加えた14か国であった。
 次いで、そこでの決定事項は次のとおりであった。
 その1は、「自由貿易地区では輸入品、通貨貨物にいかなる税も課さない」こと。その2は、コンゴ盆地からインド洋に至る地域を「国際貿易の自由地区にする」こと。その3として、「今後アフリカ大陸の沿岸部に新しく領土を得るすべての国は、この協定の調印諸国にその旨を通知し、必要ならそれらの国々に既得の権利と主張の機会を与える」ことが記されていた。
ヴェ・イ・レーニンの著作に、次の引用がある。
 「地理学者A・ズーパンは「ヨーロッパ植民地の領土的発展」にかんする著書のなかで、19世紀の発展を次のように要約している(第14表を参照)。
「「したがって、この時期の特徴はアフリカとポリネシアの分割である」とズーパンは結論している。だが、アジアでもアフリカでも、占取されていない土地、すなわちどの国家にも属しない土地はないのだから、ズーパンの結論を拡張して、この時期の特徴は地球の最後的分割である、と言わなければならない。もっともここで最後的というのは、再分割が不可能だというのではなくーそれどころか、再分割は可能であり、不可避であるー、資本主義諸国の植民政策が、地球上の未占取の土地の占拠を完了したという意味である。世界は初めて分割されつくしたのである。だから、今後にきたるべきものは、再分割、すなわち、ある「所有者」から他の所有者への移転だけであって、無主の状態から「所有主」への移転ではない。
(第14表)
 「地域・アフリカにおいて、1876年には10.8%、1900年には90.4%、増減はブラス79.6%。地域・ポリネシアにおいて、1876年には56.8%、1900年には98.9%、増減はブラス42.1%。地域・アジアにおいて、1876年には51.5%、1900年には56.6%、増減はブラス5.1%。地域・オーストラリアにおいて、1876年には100.0%、1900年には100.0%、増減はー
地域・アメリカにおいて、1876年には27.5%、1900年には27.2%、増減はマイナス0.3%」
 (注)この文章と表「ヨーロッパの植民地列強(合衆国を含む)に属する土地のパーセント」とは、ヴェ・イ・レーニン「資本主義の最高段階としての帝国主義」大月書店、1957の「レーニン全集」第22巻より引用)
  「セシル・ローズは、彼の親友でジャーナリストであるステッドの語るところによれば、1895年に、彼の帝国主義的思想についてステッドにつぎのように述べた。
 「私はきのうロンドンのイースト・エンド(労働者街)にいき、失業者のある集会をたずねた。そして、そこでいくつかの荒っぽい演説をきき、ー演説と言っても、じつは、パンを、パンを、というたえまない叫びだけだったのだがー、家に帰る途中でその場の光景についてよく考えてみたとき、私は以前にもまして帝国主義の重要さを確信した。(中略)私の心からの理論は社会問題の解決である。
 つまり、連合王国の400万の住民を血なまぐさい内乱から救うためには、われわれ植民政策家は、過剰人口の収容、工場や鉱山で生産される商品の新しい販売領域の獲得のために、新しい土地を領有しなければならない。私のつねづね言ってきたことだが、帝国とは胃の腑の問題である。諸君が内乱を欲しないなら、諸君は帝国主義者にならなければならない。」(ヴェ・イ・レーニン「資本主義の最高段階としての帝国主義」大月書店、1957の「レーニン全集」第22巻から引用)
 これらを踏まえて、レーニンは帝国主義の歴史的地位の中の4つの種類との関係について、こういう。
 「第四に、独占は植民政策から生じた。金融資本は、植民政策の数多くの「古い」動機に、原料資源のための、「資本輸出」のための、「勢力範囲」のための-すなわち有利な取引、利権、独占利潤、その他のためのー、さらに、経済的領土一般のための、闘争をつけくわえた。ヨーロッパの列強が、1876年にまだそうであったように、たとえば、アフリカの10分の1をその植民地として占取していたにすぎないときには、植民政策は、土地をいわば「早いもの勝ちに」占取するという形で、非独占的に発展することができた。
 だが、アフリカの10分の9が奪取されてしまい(1900年ころ)、全世界が分割されてしまったときには、不可避的に、植民地の独占的領有の時代、したがってまた、世界の分割と再分割のための大きな闘争のとくに先鋭な時代が、到来したのである。
 独占資本主義が資本主義のあらゆる矛盾をどれだけ激化させたかは、周知のところである。ここでは、物価騰貴とカルテルの圧迫とを指摘すれば十分である。矛盾のこの激化こそ、世界金融資本が最終的に勝利してからはじまった歴史的過渡期の、もっとも強力な推進力である。」
(注)この文章は、(ヴェ・イ・レーニン「資本主義の最高段階としての帝国主義」大月書店、1957の「レーニン全集」第22巻より引用)

(続く)

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