◎64の1『自然と人間の歴史・世界篇』中米・南米へのスペイン進出(アステカとインカの征服)

2017-09-21 22:16:09 | Weblog
◎64の1『自然と人間の歴史・世界篇』中米・南米へのスペイン進出(アステカとインカの征服)

 1519年~21年には、スペインによるアステカ帝国の征服があった。アステカは、現在のメキシコ市の中心部に都テノチティトランを置き、14世紀から現在のメキシコ南部を拠点に栄えた。国名のアステカ(Azteca)とは、彼らの伝説の上での起源の地「アストラン(Aztlan)から来ているとのこと。この文明国家を打ち立てたアステカ族は、やがてメシトリ神を戴く人ほ意味する「メシカ(Mexica)」へと昇華していく。
 1521年5月末、テノチティトランに対するスペイン軍の総攻撃が開始された。何度も迫り来るスペイン軍を、アステカ軍は激しい抵抗によって押し戻した。大砲や小銃などを使った攻撃に劣勢となり、8月13日には皇帝クアウテモックが捕らえられ、ついにアステカ帝国は降伏する。75日間の激しい攻防戦によってテノチティトランは廃墟と化した。それからのスペイン統治下で、1525年にクアウテモックも反乱を企てる。しかし、これをサッチしたスペイン軍により、処刑された。アステカ後略の功でメキシコ総督に任命されたコルテスだが、その後は中央アメリカ各地に遠征隊を派遣したが得るところはほとんどなかった。やがて、メキシコ植民地の直接支配に乗り出したスペイン王室によって、コルテスはふがいにもその職を解かれるのだった。
 続いての1531~33年には、これもスペインによるインカ帝国の征服があった。この国は、南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が作った国。1200年頃に成立し、文字を持たなかったものの、高度な農耕、金属器文化を有して、15世紀に最盛期を迎える頃、その支配地域は南米のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまでの、南北に渡る広範囲に広がっていた。
 それからさらに100年以上が過ぎる、この大いなる帝国に亀裂が生じる。そして迎えた1530年代、インカ帝国の内乱が終わった直後であることを知ったスペインは、コルテスの例に倣ってピサロ将軍をして1532年9月、スペイン軍を率いて、インカの皇帝のアタワルパのいるカハマルカに向かって進軍を開始する。11月15日、カハマルカに到着したピサロが使者を送って友好を申し出、アタワルパはすんなりとこれを受け入れる。そんな筈はないと、異邦人の善意を信じて疑わなかったことが大事を引き起こす。
 このため、8万のインカ兵は油断しきっていた。アタワルパは、翌日輿に乗ってスペイン軍の待つ広場へとやって来た。そこへ予定どおり軍僧のビセンテ・デ・バルベルテ神父が進み出る。キリスト教に改宗するように求めるも、アタワルパは断る。それを見たピサロがアタワルパの乗った輿に近づいて左腕をつかむと、隠れていたスペイン軍が一斉にインカ軍に襲い掛かる。アレヨアレヨという間に2000人余りが虐殺され、アタワルパは捕虜になってしまう。
 ピサロは、囚われの身となったアタワルパに、身代金として莫大な金銀を集めるように命じた。1533年7月、もう利用価値がないとみたのか、ピサロは軍事裁判を開いてアタワルパを処刑してしまった。首都クスコを目指して南下するスペイン軍は、アバンカイの険しい山道でキスキス率いるキート派インカの襲撃を受ける。これを辛うじて撃退したスペイン軍は、こんな時の常套手段の一つ、クスコ派でワイナ・カパックの息子の一人であるマンコ・インカを傀儡(かいらい)として即位させた。1533年11月15日朝、ピサロ率いるスペイン軍400はクスコに入城して占領を果たし、インカ帝国は滅亡したのであった。

(続く)

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