◎62『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(スペインとポルトガル2)

2017-09-13 22:19:29 | Weblog
◎62『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(スペインとポルトガル2)

 1497年7月、ポルトガルのバスコ(ヴァスコ)・ダ・ガマ(Vasco da Gama、1460頃~1524)が、インド航路開拓のため出航する。これは、ジョアン2世没後のマヌエル1世(在位は1495~1521年)の厳命であった。つごう4隻を編成しての船団は、カナリア諸島そしてベルデ岬諸島を経て南大西洋を航海し、喜望峰に出る。それからこの峰を回って東に向かい、翌年の3月にはアフリカ大陸の東岸モザンビークに到着する。現地の水先案内人の協力を得て、同年4月にはマリンディに着いた。翌年5月には、彼の率いる船団はインドのコジコーデ(カリカット、現在のカルカッタ)に到着する。そこで、ヨーロッパ人のアジア進出を恐れるイスラム商人と相まみえた。同月末に帰途についたが、暴風のため多くの乗組員を失い、1499年9月に首都リスボンに帰港を果たした。ここに、ポルトガル人は海路で香辛料の原産地に到達するというヨーロッパ人の長年の夢を実現し、首都リスボンに未曾有の繁栄がもたらされることになった。
 1497年、セバスチャン・カボット(Sebastian Cabot、1474頃~1557、ヴェネツィアにうまれ、イギリスに帰化した航海者)が、北アメリカ沿岸(ニューファンドランド)を探検する。1498~1500年、コロンブスが3回目の航海で南アメリカ沿岸を探検する。1502~1504年、コロンブスがスペイン王の命により4回目の航海にして中央アメリカ沿岸の探検にでかける。かたやバスコ・ダ・ガマは、王命で1502年に再びインドに赴き、カリカット、コーチンの抵抗勢力を武力でもって従わせ、翌年にポルトガルに帰国する。
 探検家のアメリゴ・ヴェスプッチは、1499年スペインの遠征隊に参加して南米北岸を探検航海する。そして、その北にあるのが、未知の大陸であることを発見する。まごうことなき新大陸であるにつき、アメリゴ・ベスプッチの名をとって「アメリカ」と命名される。1501年には、彼の率いる船団はポルトガルの要請で南米東岸をブラジルから南下、そのほとんどを探検航海する。1511年には、ポルトガルがインドから東に向かう。そして東南アジアのマラッカに到達し、占領するにいたる。ここには海峡があり、交通の要衝を抑えたことになる。1513年、バルボアが、パナマ地峡を横断し太平洋に至る。1519~1521年、スペインのコルテスがアステカ王国(1428年頃から1521年まで現在のメキシコ中央部に栄えた)を征服する。
 そして迎えた1521年、カルロス1世(カール5世)の命によりマゼランが世界周航に出発する。かの王は、16世紀前半のスペイン王にして、神聖ローマ皇帝、ドイツ王などを兼ねヨーロッパ最大の勢力を有していた。その翌年、マゼランの率いる船団は南アメリカ大陸の南端にいたり、マゼラン海峡を発見する。地球が天体であることが実際の航海できっきりした。1524年、バスコ・ダガマは、ジョアン3世の命を受けてインド副王として赴任したが,病を得て彼の地で死ぬ。1529年になると、東南アジアの領有をめぐってポルトガルとスペインの領有問題が燃え上がり、サラゴサ条約により東経144度30分を通過する子午線によって仕切ることになる。すなわち、その西側はポルトガル、東側に決まる。これにより、香辛料を産するモルッカ諸島がスペイン領になり、そのほかの東南アジアのほとんどはポルトガルが領有することになる。両国の間で、濡れ手に泡の権益を分け合った訳である。
 1531~1533年、ピサロがインカ帝国(インカ文化)を征服する。1535年、カルチエがセント・ローレンス川を探検する。1543年、ポルトガル人が日本の種子島に到達し、鉄砲を伝える。1545年、スペインがペルーのポトシ銀山を発見する。1553年、ウィロビーによる、チャンセラーの最初の北東航海の試みがあった。1576年、フロビッシャーが、北西航路開拓のためカナダに航海する。
 1602年、オランダ東インド会社が第1回航海を行う。1610年、ハドソンが北西航海に出発、ハドソン湾からジェームズ湾に入る。

(続く)

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◎61『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(スペインとポルトガル1)

2017-09-13 22:17:53 | Weblog
◎61『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(スペインとポルトガル1)

 1096年、カスティーリア・レオン連合王国 (スペイン) 国王は、イスラム勢力との戦いで勲功があったということで、フランスのブルゴーニュからやってきた騎士エンリケ・ド・ボルゴーニュ(アンリ・ド・ブルゴーニュとも)に、伯爵の称号と共に土地を与える。そこはドウロ川の流域で、ローマ時代には、その一帯をコンダドゥス・ポルトカレンシスと呼ばれていた。その息子・アルフォンソ・エンリケスは、 ポルトガル王国を建国し、 アフォンソ1世と号する。その後、サンタレンの戦いに勝利して、テンプル騎士団にトマールの地を与え、続いて、リスボンを奪取し、ここわ首都に定める。
 13世紀後半、ポルトガルの王位に継承問題が発生し、カスティーリャ王フアン1世がポルトガルに侵攻してきた。そんなカスティーリャの軍に対する戦いで勝利を得て、ポルトガルの独立を確保し、アヴィス朝の初代ポルトガル王となったのが、好奇心旺盛なジョアン1世であった。1409年、ヤコブス・アンゲリクスにがプトレマイオスの著「地理学」をラテン語に訳出する。1411年、カスティーリャ王国とポルトガル王国との間で和議が成立した。1415年から、ジョアン1世は大いなる富を得ようと海外進出を始めた。ジョアン1世(~1433)の息子のエンリケ航海王子(1394~1460)やコインブラ公ペドロも、モロッコ遠征に同行し。ポルトガル軍は、北西アフリカのセウタを攻略する。
 ジョアン1世から王位を継承したのはドゥアルテ1世だったのだが、その5年後に死ぬ。後を継いだのは、6歳のアフォンソ5世だった。コインブラ公ペドロが幼王の摂政として選ばれた。ペドロはジョアン1世の息子にしてドゥアルテ1世の弟(つまりアフォンソ5世の叔父)、そしてエンリケ航海王子の兄にあたる。摂政としてのペドロは、エンリケ航海王子が唱える大西洋の探検航海を支援する。
 1434年、ポルトガル人の航海士であり探検家ジル・エアネスが、ボアドール岬を回航する。エンリケ航海王子の命であったともいわれる。1477年、プトレマイオスの地図がイタリアで印刷される。1479年には、ポルトガルとスペインとの間でアルカソヴァス条約が結ばれる。仲介の労をとったのはローマ教皇であり、ポルトガルがアフリカ沿岸、マデイラ諸島、アソーレス諸島、カボヴェルデ諸島を、そしてスペインがカナリア諸島をそれぞれ領有することに決めた。1482~1485年、探検家ディオゴ カウンが、アフリカ大陸探検のためリスボンを出航した。ジョアン2世の命を受けていた。カウンの船団は、アフリカ西岸を南下中、偶然、コンゴ川河口を発見する。そのまま上流まですすむと、未知の王国があった。現在のコンゴとアンゴラの地域に当たる。
 1487年、この年の暮れから翌年初めにかけて、ポルトガル国王の命により、ポルトガルの航海者であるバルトロメウ・ディアスが出航した。アフリカ大陸を周回してインドへの航路を見出すためであった。彼の船団は、アフリカ大陸南端の喜望峰の回航に成功し、そこから折り返してポルトガルに帰港を果たす。同年、ペドロ・デ・クビリャン(Pedro de Covilh)が陸路で東方旅行に出発する。アデン経由でインド半島西岸の香料取引地に達した。またペルシア湾岸オルムスから紅海に出て、アフリカ大陸の東岸にとりつき、そこからザンベジ川河口付近まで南下した。
 コロンブス(1451~1506)は、旺盛な冒険心の持ち主であったらしい。若くして探検家となるべく、彼はポルトガルで航海技術を磨いていた。たくましい生年に成長した彼は、1484年にポルトガル王ジョアン2世(アフォンソ5世の子)に対して大西洋を西へ向かう航海を提案したらしい。ところが、当時アフリカから東に向かってインドに到達することを目指していたポルトガルは、彼の提案を受け入れなかった。それでも夢を諦めきりないコロンブスはスペインに向かい、カスティーリャ女王イサベル1世の支援が得られることになった。同年、スペインはアンダルシア地方の街グラナダの攻略に成功する。
 1492年10月、スペイン王の命を受けたコロンブス(1451~1506)らの艦隊がカリブ海水域に到着し、そこに未知の島を発見した。その前の8月、かれの船団三隻はポルトガルのパロス港の近くサルテス川の河口から、出航していた。主船としては、サンタ・マリア号といい、ナオ船という大型帆船で100トン位であったろうか。残りの二隻はニーニャ号とピンタ号といい、カラベラ船(15世紀に生まれた三本マストの帆船)で約60トン程度であったという。
 コロンブスらの目に、そこは別世界のように写ったのであろうか、かれらはその未知の島(バハマ諸島、キューバの島々あたりか)に上陸した。その時、コロンブスに従っていたラス・カサス神父は、後に上陸の様子をこう振り返っている。
 「上陸してみると青々とした樹木が見え、水もふんだんで、いろんな種類の果物が実っていた。提督(コロンブス)は、二人の船長をはじめ、上陸した者達、および船隊の記録官である、ロドリゴ・デ・エスコベート、ならびにロドリゴ・サンチェス・デ・セゴビアを呼んで、彼が、いかにしてこの島をその主君である国王ならびに女王のために、並居る者の面前で占有せんとし、また事実、この地において作成された証書に委細記されてるように、必要な宣言を行ってこれを占有したかを立証し、証言するようにとのべた。
 そこへ早速、この島の者達が大勢集まってきた。(中略)彼らは力ずくでよりも、愛情によって解放され、キリスト教徒に帰依する者達だと見て取りましたので、幾人かに、赤いボンネット帽と、首飾りになるガラス玉や、その他たいして値打ちのないものをいくつか与えました。すると彼らは非常に喜び、全くすばらしいほど我々になついてしまったのであります。(中略)彼らは武器を持っていませんし、それがどんな物かも知りません。私が彼らに剣を見せましたところ、刃の方を手に持って、知らないがために手を切ってしまったのであります。鉄器は全然持っておらず、その投げ槍は、鉄の部分がない棒のようなもので、尖きに魚の歯などをつけております、(中略)彼らは利巧なよい使用人になるに違いありません。(中略)私は、彼らは簡単にキリスト教徒になると思います。(中略)私は、神の思し召しにかなうなら、この地を出発するときには、言葉を覚えさせるために、六人の者を陛下の下へ連れていこうと考えております。」(ラス・カサス著・林屋永吉訳『コロンブス航海記』岩波文庫)
 1493~1496年、コロンブスの2回目の航海があった。小アンティル諸島、ハイチ島を探検した。1494年には、ローマ教皇アレクサンデル6世の仲介にて、ポルトガルとポルトガルの間でトルデシリャス条約が結ばれる。この条約で、スペイン、ポルトガルが両国の領有権を分割する。具体的には、アフリカ西岸のヴェルデ岬から370レグア(約2000km)西の子午線(西経46度30分)の西をスペイン、東をポルトガルの権利地域に定める。

(続く)

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