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科学技術の発展を政治はどう制御すべきか?

2016-07-26 22:38:27 | 大学公開講座
 科学技術の発展は、戦争の道具の発展でもある側面が強い。そのような科学技術の発展を国家としてどう制御すべきなのか?技術者とともに、政治家・官僚の責任が問われる問題である。このことについて研究者の話を聞いた。 

 講義の内容をどうレポすれば良いか、と呻吟するうちに時間が経ってしまった。遅まきながらまとめてみたい。

 受講する北大の公開講座の日程が重なってしまった。この日は「『国のかたち』を案ずる時代の知恵」の第7講が開講される日だったが、同じ7月21日(木)より、高等法学研究センターが主催する「テクノロジーと法/政治」という講座が始まった。
 両方の受講を申し込んでいた私は、前者を欠席して後者を受講することにした。

 テクノロジーと法や政治は、一見何の関わりもないように見えるが、実は大きな関わりをもっているという。そのことについて、4回シリーズの講座で説いていくのか本講座である。(私は第2回講座を欠席しなければならないが)

 その「テクノロジーと法/政治」の第1講が「科学技術と政治」 と題して、大学院法学研究科教授であり、公共政策大学院の教授でもある鈴木一人氏が講義した。
 鈴木教授が所属する公共政策大学院とは、「文系」、「理系」の教員が集い、お互いの専門性を活かしつつ、国や地方公共団体などの政策立案をできる人材を養成していくところだそうだ。

            

 鈴木教授の講義の大意を私は次のように理解した。
 科学技術の発達は、生産の向上に寄与するとともに、戦争の道具として利用されてきた。
 技術開発にはコストがかかるが、それを誰が負担するのか、という問題がある。
 ここで問題になるのは、税金を使った国家による技術開発である。国家による技術開発を推進する場合、主権者(国民)による支持と、技術に対する信念・理解が必要となる。

 話を分かり易くするため、日本が直面している「原子力発電所事故」の問題を例にとりながら話を進めると、原子力開発を進めるか否かについて主権者(国民)は政治家にその選択を委ねた。その結果、原子力開発はCO2を発生しない技術として認められ開発は承認されてきたが、福島でご存じのような事故を起こしてしまった。
 この過程において、科学者たちは「技術者の共和国」(原子力ムラ)を形成してしまい、技術者独自の関心と研究目的を設定して、政治(政治家・官僚)と対峙した。
 しかしながら、政治家は一般的には科学技術の素人であり、官僚も専門的知見を有するとはいうものの、技術的な審査、理解が十分とは必ずしも言えない現実がある。
 こうした科学的・技術的知見の欠如によって、研究者(技術者)が優位な立場となる。
 その結果が、想定もしていなかった福島原発事故を招いた一側面ではないか(と、鈴木教授は明言されなかったが)と私は受け止めた。

 冒頭に記述したように、科学技術の発展は戦争の道具としての発展という側面も強い。とすると、国家が科学技術の発展のためとしてそれを承認し後押しするのか否かという意味は大きいものである。
 科学技術が暴走しないためにどうすべきかについて、鈴木教授は最後に次のように提言した。
 一つは、透明性の確保ということだ。意思決定過程で知識・データを公開していく仕組みを作るべき、という。
 二つ目に、当事者としての決定を可能にすること、説いた。ここは説明が難しいので、鈴木教授の提言をそのまま転写する。当事者の一人である統治者は事故の起こる確率からの判断が求められる。一方、リスクを受ける側である国民は、公開された情報と必要な知識に基づくリスク計算をした上で行動(投票?)を決定すべきである、とした。

 私は今回の講義を聴いていて、以前聴いた「デュアルユース」の問題を思い出していた。
 研究者は自らの科学的研究にのみ関心行ってしまい、その研究結果(成果)の行方には関心をもたない場合もあるという。あるいは、自らの研究成果が思わぬ利用をされる場合もあるだろう。

 大変な発展を遂げた現代の科学技術であるが、それを生かすも殺すもそれを利活用する人間次第である。
 民主主義の世界においては、どこかに、誰かに、全てを委ねるのではなく、一人ひとりがそれなりの関心を持ち続けねばならない、と私は理解した。


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