修一のよもやまばなし

高槻ライオンズクラブの元会長で元335B6R1ZCP(2009ー2010)中川修一が毎日のできごとと思いを綴るブログ

京阪バスの乗り場が新しくなりました

2016-12-01 17:41:23 | Weblog


JR高槻駅の南口のバス停が屋根がついて新しくなりました。そこにあった京阪バスの看板です。いすずのボンネットバスがかわいく描かれています。こんなバスが、新京町商店街(高槻センター街)を走っていた記憶があります。昭和30年代後半の話です。
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「あれから50年」高槻市立第一中学校18期生同窓会

2016-10-11 23:26:15 | Weblog
10月2日に、同級生71名と好田先生の参加を得て、盛大に開催することができました。一部はクラス別のテーブルで会食と会話を楽しみました。二部では二年生時のクラス別に分かれて、コーヒーとケーキで楽しい時を過ごしました。50年の時を隔てて、会話の中身も、健康の話であったり、孫の話であったり、介護の話であったりと、仕事の話は少なかったりと変わってきていました。同じ時代を生きている仲間としての連帯感をあらためて確認しました。来れなかった仲間が2名ほどおられたのですが、会計は1万円ほど余剰が出ましたので、これは、次回の案内状の費用に当てさせていただきます。
幹事のみなさんお疲れ様でした。10月23日6時より、反省会並びに慰労会を開催したします。場所は未定です。なお、今回幹事をされていなくても時間の会う方は来ていただいて結構です。さてさて、終わってみると積もる話がまたまた増えたように思います。みなさんありがとうございました。

記事が前後しましたごめんなさい。

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摂津峡キャンプ場デイキャンプ

2016-10-11 23:05:52 | Weblog
「摂津峡キャンプ場で松茸がり」というテーマでデイキャンプをしました。10時に集合して、先ず場内の散策。バーベキューの準備をしながらお昼時間になるのを待ちます。飯盒で4号のご飯とお湯を沸かし、バーベキュー用の炭に火を付けます。食材は昨日、買い集めたお肉と野菜です。10人の大人と3歳の子が一人。全員が元キャンプ場の関係者で30年ぶりの摂津峡です。森の木々は、はるかに大きくなっていて、まったく違う森の様子です。足元には熊笹はほとんど見当たりません。クヌギやコナラは10m以上に高くなっています。そして楢枯れの処分でコナラは大半が切られてい7、8段に積み上げられています。手入れのしない森は人を寄せ付けなくなっています。食事の後、一本の枯れた松を切りました。直径20cm位の松でしたがそれでも年輪は40年くらいありました。
 ようやく秋がやってきました。摂津峡のキャンプ場は私たちともう一組の家族だけです。森の中には、クヌギのどんぐりがたくさん落ちています。とても拾いきれません。森の中は、背の高い木も低い木もどこもいっぱいで迷路のようです。ここは、典型的な里山です。スギやヒノキの植林はほとんどありませんが、最近まで(50年くらい前の話)生活用の薪をとっていたのだと思います。今日のキャンプ場はとても静かでした。30年以上の前に、過ごした「夏の暑いいそがしいかったキャンプ」のことなんかを話をしながら一日を過ごしました。キャンプ場の坂は、かなり足にきます。明日はきっと筋肉痛だと思います。四時過ぎにかたづけて帰りました。キャンプファイヤーは街中で居酒屋ですることにしました。参加していただいたみなさんありがとうございました。またいつかやりましょう。今度は真冬にたき火を囲みながらやりましょう。
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高槻第一中学校の航空写真2015 と1990

2016-09-28 18:32:41 | Weblog


1990年ころの高槻第一中学校周辺です。北側から南に向かって撮った写真です。左がてかっていますがこれはカメラの反射です。北門があって、今の公民館とか、城跡歴史館はまだできていません。市民プールも健在です。

こちらは2015年の一中です。これは南側からとっています。上の写真と南北が入れ替わっています。西側に体育館があります。その南側にテニスコートが二面あります。
私が入学したのは1963年4月です。市民プールはまだありません。市民会館も建設中でした。第6中学校ができた年で同級生は380人くらいで8クラスでした。一クラス上は18クラスあったんではなかったかと思います。
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6リジョンリジョンチェアパーソン

2016-07-25 00:02:15 | Weblog
ライオンズクラブという団体に入っているのですが、この7月から6リジョンリジョンチェアパーソンという役職をいただきました。大阪、和歌山地区は335B地区と名前が付いていて、その中で12のリジョンに分けられていて、高槻市、茨木市、摂津市、島本町、枚方市、守口市、門真市、寝屋川市。交野市、が6リジョンというように名前が付いています。その中の議長という役割です。
今日は7月25日は、はじめての、335B地区のキャビネット会議の日です。最初の日ですので私の方針をここにも載せたいと思います。


7年前に1Zゾーン・チェアパーソンを経験させていただいてから、もうキャビネットの役
はないだろうと思っていたのですが、この度、6Rリジョン・チェアパーソンを拝命いたし
ました。リジョン・チェアパーソンは、リジョン内の活動の責任者なのですが、地区ガバ
ナーの方針を伝え、ゾーン・チェアパーソンと共に、リジョン内の各ゾーンを構成する単
位ライオンズクラブの活動を、円滑に、かつ活発にするために活動することが任務である
と考えています。

国際会長、BOB(ボブ) CORLEW(コーリュー)(アメリカ、テネシー州ミルトンマーフリーズボロ)の
  国際会長テーマ「次なる山を目指して」
335-B地区ガバナー、川野浩史の 地区ガバナースローガン「夢と情熱」
のもと、本年度の活動を進めます。

● 地域に奉仕する
ライオンズクラブ活動の活性化のために多くのことが語られていますが、奉仕活動、
と会員増強に集約されると思います。ライオンズクラブの基本は地域社会に奉仕する
ことです。
ライオンズクラブの認証証には、必ずクラブが属する地域が記載されています。
各ライオンズクラブは、それぞれの地域での奉仕活動を見つけ、それを実践されてい
ると思います。新たな奉仕活動を見つけたり継続されている奉仕活動をより充実させ
るための支援をしたいと思います。

● 会員を増強する
会員増強については、各ライオンズクラブで取り組まれておられますが、昨今の経済的
な事情から伸び悩んでおられるところも多々あると思います。きちんとした例会の運営
など、基本的なところに立ち返って、メンバーひとりひとりに、負担の少ない運営方法
を研究したいと思います。

1Zゾーン・チェアパーソン本川憲司(茨木LC)、2Zゾーン・チェアパーソン松村和夫
(枚方LC)はじめ6リジョン内各クラブの会長幹事、地区役員のみなさんのお力添えを
いただきながら、非力ではありますが、6リジョンの運営に邁進したいと思います。


ライオンズクラブに在籍されていない方には、わかりにくいことだと思いますがご容赦ください。こんなことでこの一年間過ごしたいと思っています。

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高槻市立第一中学校18期生同窓会の会場が取れました

2016-04-04 20:52:04 | Weblog
今年の初めから高槻市立第一中学校18期生の同窓会をしようということで幹事会を二回ほど持っていたのですが、会場が決まらなくて困っていました。6月中にはやろうと計画していたのですが、市民会館現代劇場の文化ホールのレセプションルームが日曜日の昼に取れませんでした。そこで、いろいろ検討の結果10月の二日の日曜日にしようということになりました。文化ホールの受付は半年前のの9時から受け付けるということでしたので4月三日の8時45分に市民会館の事務所に。寺林明美さんと二人で行きました。私は4月1日にも、他に行政が予定を入れていないか確認に行ったのですが、行政の予定は入っていないということで確認していました。しかし、何と、私の希望していた10月二日の文化ホールの3階レセプションルームは予定が入っているではありませんか。なんでやねん。4月三日の9時には3組の方が受付に来られていました。一人の方は401号室の希望でしたので競合がありませんでしたのですんなりと決まりました。私は、というと第一希望の文化ホール3階のレセプションルームが抑えられてしまっていたので、仕方なく文化ホール2階の展示室を取りました。20800円の使用料を前納して手続きは完了しました。なんとか同窓会をする部屋は確保いたしました。


そうはいっても、高槻市立第一中学校18期生の同窓会の会場が取れましたので、同窓生の皆さんに報告いたします。
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高槻の中心地の歴史2シティライフ1月号の記事を転記しました

2015-12-26 18:34:44 | Weblog
現在、そして未来にもつながる過去の情報を取材、編集し、記録する特集です。北摂の歴史から、私たちの住むまちの魅力を学び知る機会になればと思います。第十回は、高槻市の駅周辺の変化について、中川修一さんにお話をお聞きしました。シティライフ アーカイブズ検索


明治維新(1868 年)後の高槻町(後の高槻市)は戸数わずか7 百、人口3千の小さな町だった。住民の半数は農家で、数少ない商人も商売だけでは生活が成り立たず、半農半商が多かったようだ。1928年になると、高槻の中央部に現在の阪急電車の前身である京阪電気軌道の「新京阪線」が開通する。1月に高槻天六間、11月には京都まで全通。これをきっかけに住宅地の開発が始まって人口が増え、1929年には駅を結ぶ「新京町通り」に商店がぽつぽつと並び始めた。とはいえ、このころはまだ店の数が少なく、商店街といえるものではなかったという。中川さんは、「大阪から商売人が進出して高槻市場を
開いたんです。それで、周辺にどんどん商店が増え始めました」と話す。1931年には、高槻町や芥川町を始めとする5つの町村が合併、人口は2万人まで増加する。さらに、急行電車も停車するようになり、こうした時代背景とともに、後の高槻センター街である「新京町商店街」が繁栄していった

当初、高槻市役所や警察署など行政の中心はJRの駅前にあった。しかし、中心地を活性化させるため駅前への百貨店の誘致が始まり、1971年に市役所は現在の桃園町に移設。JR高槻駅の北側には、
1973年に西武百貨店がオープンの予定だったが開店の4日前にかさいが発生し1年開店が遅れた。そのころには、高槻センター街では屋根つきのアーケードが完成していた。また、高槻市の人口は、この年に30万人を超えた。そして遅れること5年、19 79年にJR高槻駅の南側に松坂屋がオープンした。
 
元々けやき通りは狭い道で、市役所からセンター街まではバスも通れないほどだった。またみずき通りは、線路沿いに民家や商店が並んでいるだけの道だったという。しかし、1980年から約10 年かけて阪急電車が高架化。これに伴い、センター街を短くしてけやき通りを広げるとともに、みずき通りも完成した。みずき通りは元々住宅が立ち並んでいて、道がなかった。高架工事をするために新たに道を作り線路を移設し、高架工事を完成そのあとみずき通りにしたという。近くに店を構えていた中川さんは、「市バスの停留所が国道沿いに行ったので、10年間は売り上げが10 パーセント落ちたのでよく覚えているんです(笑)」と話す。。高架工事は、線路を一時みずき通りに移設し電車を走らせるなど、かなり大掛かりだったそうだ。

1973年(昭和48 年)ごろの高槻地区商店街(現高槻センター街)。この頃、すでに商店街の雰囲気は現在と同じような印象。
(上)新京町商店街の風景1963年
(昭和38年)ごろ。(左)高槻センター街から発行された「写真で綴る 高槻センター街50年史」。1979年9月発行。

昭和2年頃の中心街のマップ。中川さんの父親、故中川市太郎(元高槻センター街理事長)さんの手書きのマップもとに作成。
高槻市の人口は、昭和30年代に10万人を超え、昭和44年に20万人、昭和48年に30万人に達する。昭和40年代は1年で2万人増のペースで、学校が足りないなどインフラが追いつかないほど急激に人口が増えた。

国鉄高槻駅(現JR高槻駅)の周辺は田んぼに囲まれていた。
この道は西国街道と高槻城下を結び檜尾川まで続く幹線道路だった。
新京町通が後に「高槻センター街」となる。
明治9年に「国鉄高槻駅」として開業。高槻城の石垣を切り崩して、鉄道建設に石材が流用された。
1928年(昭和3年)新京阪鉄道(現阪急電鉄)「高槻町駅」として開業。1943年(昭和18年)に「高槻市駅」改称。
1963年(昭和38年)、国鉄高槻駅北口、市営バスのりば。
1954年(昭和29年)2月24日、市営バス開業式の日の花バス。
1979年(昭和54 年)7月1日、グリーンプラザたかつき1・3号館オープン。


昭和50年代の写真。西武百貨店の向かいにアクトアモーレがつくられる。
1970年(昭和45年)に第1回高槻まつりが行われた。高槻市の人口が急激に増加したため、新市民と旧市民の心の調和をとるため、また「ふるさとづくり」を目指して始まった。
1954年当時、狭いセンター街を市バスと京阪バスが走っていた。この危険な状況は何年も続いたが、やがて商店街の店主たちがアーケードの建設や安全性を求めて立ち上がる。赤いハチマキを巻き、「安心してお買い物できる商店街にしよう」とプラカードを掲げデモ行進を決行。1970年にようやく全面通行禁止になった。

1973年(昭和48年)ごろ、建設中
1960年代、デモ行進のようす。 高槻センター街を走り抜けるバス の西武百貨店(火災後)。
1958年(昭和33年)、JR駅前にあった旧市庁舎。
1965年(昭和40年)ごろの阪急高槻市駅西側踏切(新京町商店街)。

昭和25年11月6日、新京町商店
街で生まれる。㈱丸公代表取締
役、高槻まつり会長、たかつき中通
り本通り商店街会長、わくわく探検隊顧問
歴史案内人

取材を終えて
 高槻市の中心部は、JR高槻駅と阪急高槻市駅の両駅を中心に広がる商店街や百貨店、医療機関、大学、また最近では住居系マンションの建設が進むなど、北摂でも指折りの元気な中心市街地ではないでしょうか。この取材を通じ、駅前商店街の発展には、大胆な区画整理などのインフラ整備の重要性を感じこることができました。  編集部 尾浴 芳久
シティライフは今年で30年目を迎えます
 
元々けやき通りは狭い道で、市役所からセンター街まではバスも通れないほどだった。またみずき通りは、線路沿いに民家や商店が並んでいるだけの道だったという。しかし、1980年から約10 年かけて阪急電車が高架化。これに伴い、センター街を短くしてけやき通りを広げるとともに、みずき通りも完成した。みずき通りは元々住宅が立ち並んでいて、道がなかった。高架工事をするために新たに道を作り線路を
 
芥川商店街とJRで囲まれた三角地帯は、長い間大きな商業施設がなく、木造住宅が密集していた。そこへ、JR駅前を高槻の玄関先にしようと地元住民から声が上がり、再開発事業がスタートする。2002年からロータリーには2階建ての仮設店舗が建設され、入居した店舗の売上げは5倍ほどに上がったそうだ。地元も潤ったことから、地域も納得した上で開発が進み、2006年アクトアモーレが華々しくオープンし1987年(昭和62年)、阪急高架事業の工事中のようす。たのだった。

今後の高槻について、中川さんはこう話す。「50年先の町や人口、職業がどう変化しているのか、全く想像もつきません。ただ、子ども達を地域で育てていくために、これまで商店街の役割だったコミュニケーションをどう担うかが、今後のまちづくりのキーになるのではないでしょうか」。

取材協力 中川修一さん



旧町村 世帯数 男女計
高 槻 1,263 5,535
芥 川 1,050 5,233
清 水 714 3,484
磐 手 643 2,934
大 冠 590 2,919
合 計 4,260 20,095


1969年 人口20万人 学校建設ラッシュ
1970年 万博、高槻まつり
1971年 高槻市役所移転
1973年 西武百貨店火事、 センター街アーケード完成 人口30万人
1979年 松坂屋、グリーンプラザ完成、 阪急高架着工
1992年 けやき通り完成、みづき通り完成
2006年 アクトアモーレ完成



写真出典:
「写真で綴る 高槻センター街
50
年史」(一部)
親京阪の開通1928年(昭和3年)
2014.0 City Life KOBE 00

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高槻の中心地の歴史

2015-12-26 18:00:25 | Weblog
シティライフ1月号の紙面に高槻の中心市街地の歴史を特集していただきました。私の記憶と古い資料から、明治9年高槻駅開業、昭和3年新京阪高槻駅駅の開業。そのあとその二つの駅を結ぶようにして高槻の中心部造られていった。高槻市役所の現在地への移動を皮切りに、西武百貨店の登場、マツサカヤの登場、阪急高架事業の完成、アクトアモーレの完成。次々と新しい事業が動き出していきました。さてこれからの50年はどうなんでしょう。北は、上宮天満宮、から南は現代劇場にいたる中心市街地が高槻の豊かさを発信しています。中心市街地がはっきりとある。このことがよさだと思います。


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白秋祭「柳川堀物語」を見て

2015-11-04 00:45:15 | Weblog
原公民館で開催されました、白秋祭に、参加致しました。北原白秋にちなんだイベントで、原の里山づくり実行委員会(石田和義会長)の主催で行われました。柳川堀物語は、治水の大切さを知ることができてよかったです。堀割の水郷として有名な柳川の有り様が地域の自治体と住民の働きで美しさを維持されているという話でした。有明海の自然と調和した治水の方法として、新田開発と合わせて編み出された先人の知恵があの美しい水郷を作ってきたということでした。
 わたしは、昨年「淀川河川レンジャー」の講習会に参加して、淀川水系の概要について、学びました。芥川についてもそれなりに知識はあるのですが、あらためて、河川管理の歴史性を知りました。有明海という特殊な環境の中で、編み出された、水の管理の方法だと理解できました。芥川には、芥川の河川管理の方法があるのだと思います。今日の会場の原も、江戸時代の末期に水害が起こっています。浄圓寺が原盆地の西の山裾にありますが、水害の後、高台に引っ越されて今の場所にお寺ができたそうです。西之川原付近の芥川は今よりも東を流れていました。だから、西之川原という地名になっています。淀川の番田付近から、三箇牧にかけては、何度も破堤されているようです。淀川の堤防は今よりも5mから8m低かったそうです。JRの鉄橋は明治10年ごろに完成していますが、高槻城の城壁の石が使われています。(北側の二本の線路分)ということは、芥川のJR付近の様子は当時のままと言えるのではないかと思います。今、芥川では「あゆの遡上」を摂津峡までということで淀川から上流の堰を順次、改修されています。たくさんの堰があることを学びました。芥川の過去の破堤は下流の淀川との合流地点で起こっています。それは、淀川の水が芥川を逆流して、というか、淀川の水位が高くなりすぎて、芥川の水が淀川に排水されなくて、合流地点で、越流が起こり堤防の外側から破堤したということです。戦後すぐに、下流で破堤したそうですが、一番新しいのは昭和42年6月末に、如是川が如是小学校の100M位上流で決壊しています。この時は芝生の芥川大橋の上流の芥川と如是川との合流地点で芥川の水量に押されて如是川の水が流れずに、越流が起こり破堤に繋がっています。そのあと津之江公園の周りに有った堤防を撤去して、津之江公園全体を遊水池に作り替えられました。今から25くらい前の話です。津之江公園の広さを計算していませんが、野球場が二面くらいとれそうですので30000m2以上あると思います。仮に堤防の高さを5mとすると150000m3の水を貯められます。これとても芥川の流水量にすれば一瞬の量です。淀川の最大流量は、毎秒12000m3の排水量で設計されているそうですが、これも大阪湾の満潮時では、思うに任せられないと思います。淀川が満水になると芥川の水が排水されなくなり、越流が起こります。芥川が満水になれば如是川が越流します。そうして考えると、芥川で一番危険な場所はやはり、淀川との合流地点ということになります。
先日、ある会合で、芥川の浚渫の話が出ていました。JRの鉄橋付近に溜まっているいる土砂を浚渫してほしい旨の話だったと思いますが、ここは危険水位越えの大雨が降るとすぐに土砂が堆積する場所です。でJR鉄橋すぐ下流の(清水池公民館の少し上流)に堰があって、この堰で流水スピードが下がっています。それで土砂が溜まるのです。しかしながら、大量の雨が降るときは、一度に下流まで土砂を運んでしまうので土砂が溜まらないのです。土砂が溜まるという意味では、津之江公園の山になっている土砂を撤去する方がはるかに芥川の安全度は上がります。


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一時間に100m2の雨と芥川

2015-09-21 12:17:29 | Weblog
よく言われる時間100mmの雨について書きます。一時間に100mmといいますが、いつも面積の話が飛ばされています。時間100mmの雨がどのくらいの広さに降ったのかが重要です。つまり、合計何トンのあめがふったかということが重要です。1km2の面積に100mm/時間の雨が降ると、合計で100000m3の量になります。これを一時間で排水するとなると、100000m3を60分×60秒で割ると27.7m3/秒となります。約30m3/秒の水を排水しなければなりません。高槻の芥川の流域面積は55km2ですので、芥川流域全体に時間100mmの雨が降ると5500000m3の水が出ることになって、30m3×55で1650m3/秒の水を排水しなければなりません。それでは、芥川にこの水を排水する能力があるかどうかという話です。今、秒速5mで川が流れるとすると、断面積×5が排水能力となります。仮に、幅40m×高さ5m×流速5mとすると1000m3となります。先日の鬼怒川のように一晩で600mmも降ると限界があります。高槻の山間部にそれだけの雨が降るとあぶないということです。実際の芥川の大きさをはかったわけではないので、もう少し余裕があるのかもしれませんが100年単位の長さでいうと、江戸中期に原の盆地が水没した記録があります。その時はきっと摂津峡も宮之川原も大変なことになっていたと思います。宮之川原の西側に芥川が流れていますが、もともとは宮之川原の真ん中を流れていたものを西に付け替えられています。この時に淀川が満水状態ならば、下流で越流が起こります。こんなことだと思います。
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