大間原発のシンポに行ってきました。
新聞では、「原子力開発ありきのシンポ」という批判がありましたが、私から見ると、「反対ありきの住民」とも見えてしまいました。
ちなみに、参加者は250〜300人程度、9:1で男性が多く、20歳代は5%程、30〜50歳代が30%程で、全体の7割近くは60歳以上だったと思います。
若い方は、少なかったです。
とにかく、議論が噛み合っていなかった。
エネルギー政策という、ナショナルかつグローバルな問題に対して、地域の安全というローカルな見解から批判が出ていました。
また、原発の「安全」を、超人工的な建築構造上から説明していたのに対し、超自然的な自然災害(特に地震)から批判していました
これでは、議論が噛み合わなくなる。
東芝で原子力の開発をやってこられた北海道大学大学院教授の奈良林直さんの説明の時が特にそうでした。(シンポ中も沢山の野次がでていましたが・・・個人を批判しても無意味ですのに。大変そうでした。)
原発の構造を素人の私達が完璧に理解することは、無理です。
そこを丁寧に説明してくださったのはあり難いのですが、私のような阿呆だと、正直眠りそううです(笑)
BWRとABWRの違いなどは、どうも分からない。
ましてや、日々革新している科学技術に、素人の私達が追いつけるわけが無い。
それならば、そもそも、今後の私達にはどれ位の電力が必要なのか、という事を議論してもいいのかな、と思いました。
「今の私たちの生活には、多大な電力が必要」なのか。
それはあくまで、都市の大量消費型生活ではないだろうか。
都市できらびやかに光り輝く広告とネオンに包まれた生活をやめれば、少なくとも規制すれば、大きな電力削減になると思います。
(ただ、それは無理だとも思います。現代の消費は広告で成り立っているので、消費の原動力である広告を削減することは、不可能でしょう)
少なくとも、ここで指摘しておきたいのは、供給(原発)だけでなく、消費(ライフスタイル)の方にも視野を広げる必要があるのではないだろうか、と言うことです。
ライフスタイルの変化は、大量の電力消費の削減にもつながると思います。
今日のシンポでは、主観的な批判が目立ちました。
特に、津軽海峡の環境の変化に対する批判が多かったように思います。
津軽海峡で生計をたてている方々ですので、当然だと思いました。
マグロは敏感な生き物だから、海水温度が1度上がると、採れなくなるかもしれない。
そうなったら私達の生活はどうなるんだ、といったものです。
この批判は、温暖化対策でよく用いられるような、マクロな問題(地球温暖化)をミクロな対策(個人の”エコ”生活)でなんとかしようといった状況に似ています。
つまり、ナショナルかつグローバルなエネルギー確保(マクロ)といった課題に、個人の生活(ミクロ)の保障といった批判では、議論がなかなか噛み合わなくなってしまいます。
というか、温暖化対策同様、ほとんど効果は無いのでは、と思ってしまいます。
原子力推進側がナショナルなレベルで議論しようとしてくるのであれば、私達もナショナルなレベルで議論する必要があると思います。
私としては、電力の消費規制が1つのテーマになるのかな、と思います。
また、水力、太陽光から波力といった幅の広い自然エネルギーの利用も、今後の課題になると思います。
というわけで、比較的騒がしい会場で、難しい議論が繰り広げられていたので、私はおとなしく本を読んでいました。
質問もしたかったのですが、チキンの私には、あの会場の雰囲気ではどうも発言する勇気も持てず、じっと本を読んでいました。
シンポも終わり、参加者が帰り始めたときも、私はキリの良い所まで読み続けていたため、気が付くと会場には参加者数名と新聞記者の方々しか残っていませんでした。
そこへ、一人の青年が私のほうに。
「○○新聞のものですが(たしか道新)、少し感想をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
あなたは、シンポなんか聞かずにずーっと本を読んでいた私のどこを見て、インタビューする気になったのですか?
なかなか良い感性の持ち主ですね(笑)
野次を飛ばしていたおじ様ではなく、最後に大きな拍手を貰っていたおば様でもなく、話を聞かずに本を読んでいた私の所に来るなんて・・・。
(ちなみに、他の記者はみんなおば様の所に行っていました。(笑)各紙、同じ会場の声が載るはずです。)
彼の感性に応えられたかどうか、少し心配です。
明日の新聞で、23歳学生の声があったら、間違いなく私です(笑)
新聞では、「原子力開発ありきのシンポ」という批判がありましたが、私から見ると、「反対ありきの住民」とも見えてしまいました。
ちなみに、参加者は250〜300人程度、9:1で男性が多く、20歳代は5%程、30〜50歳代が30%程で、全体の7割近くは60歳以上だったと思います。
若い方は、少なかったです。
とにかく、議論が噛み合っていなかった。
エネルギー政策という、ナショナルかつグローバルな問題に対して、地域の安全というローカルな見解から批判が出ていました。
また、原発の「安全」を、超人工的な建築構造上から説明していたのに対し、超自然的な自然災害(特に地震)から批判していました
これでは、議論が噛み合わなくなる。
東芝で原子力の開発をやってこられた北海道大学大学院教授の奈良林直さんの説明の時が特にそうでした。(シンポ中も沢山の野次がでていましたが・・・個人を批判しても無意味ですのに。大変そうでした。)
原発の構造を素人の私達が完璧に理解することは、無理です。
そこを丁寧に説明してくださったのはあり難いのですが、私のような阿呆だと、正直眠りそううです(笑)
BWRとABWRの違いなどは、どうも分からない。
ましてや、日々革新している科学技術に、素人の私達が追いつけるわけが無い。
それならば、そもそも、今後の私達にはどれ位の電力が必要なのか、という事を議論してもいいのかな、と思いました。
「今の私たちの生活には、多大な電力が必要」なのか。
それはあくまで、都市の大量消費型生活ではないだろうか。
都市できらびやかに光り輝く広告とネオンに包まれた生活をやめれば、少なくとも規制すれば、大きな電力削減になると思います。
(ただ、それは無理だとも思います。現代の消費は広告で成り立っているので、消費の原動力である広告を削減することは、不可能でしょう)
少なくとも、ここで指摘しておきたいのは、供給(原発)だけでなく、消費(ライフスタイル)の方にも視野を広げる必要があるのではないだろうか、と言うことです。
ライフスタイルの変化は、大量の電力消費の削減にもつながると思います。
今日のシンポでは、主観的な批判が目立ちました。
特に、津軽海峡の環境の変化に対する批判が多かったように思います。
津軽海峡で生計をたてている方々ですので、当然だと思いました。
マグロは敏感な生き物だから、海水温度が1度上がると、採れなくなるかもしれない。
そうなったら私達の生活はどうなるんだ、といったものです。
この批判は、温暖化対策でよく用いられるような、マクロな問題(地球温暖化)をミクロな対策(個人の”エコ”生活)でなんとかしようといった状況に似ています。
つまり、ナショナルかつグローバルなエネルギー確保(マクロ)といった課題に、個人の生活(ミクロ)の保障といった批判では、議論がなかなか噛み合わなくなってしまいます。
というか、温暖化対策同様、ほとんど効果は無いのでは、と思ってしまいます。
原子力推進側がナショナルなレベルで議論しようとしてくるのであれば、私達もナショナルなレベルで議論する必要があると思います。
私としては、電力の消費規制が1つのテーマになるのかな、と思います。
また、水力、太陽光から波力といった幅の広い自然エネルギーの利用も、今後の課題になると思います。
というわけで、比較的騒がしい会場で、難しい議論が繰り広げられていたので、私はおとなしく本を読んでいました。
質問もしたかったのですが、チキンの私には、あの会場の雰囲気ではどうも発言する勇気も持てず、じっと本を読んでいました。
シンポも終わり、参加者が帰り始めたときも、私はキリの良い所まで読み続けていたため、気が付くと会場には参加者数名と新聞記者の方々しか残っていませんでした。
そこへ、一人の青年が私のほうに。
「○○新聞のものですが(たしか道新)、少し感想をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
あなたは、シンポなんか聞かずにずーっと本を読んでいた私のどこを見て、インタビューする気になったのですか?
なかなか良い感性の持ち主ですね(笑)
野次を飛ばしていたおじ様ではなく、最後に大きな拍手を貰っていたおば様でもなく、話を聞かずに本を読んでいた私の所に来るなんて・・・。
(ちなみに、他の記者はみんなおば様の所に行っていました。(笑)各紙、同じ会場の声が載るはずです。)
彼の感性に応えられたかどうか、少し心配です。
明日の新聞で、23歳学生の声があったら、間違いなく私です(笑)
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ここ2・3日、風邪をひき寝込んでいました。
寝込むと言いましても、ずっと寝ていられるわけもなく、ほとんどは読書の時間です。
こう、寝る以外に何もやることが無い、という状態に方が、読書には向いているようです。
(通勤・通学の電車の中のような感じです)
「病」は、自殺者の最も多い理由の一つです。(実際はより複合的です)
病床の中で、斎藤貴男『強いられる死 自殺者3万人超の実相』角川学芸出版 、2009を読みました。
著書の中で「書くのが辛い」と述べられており、またAmazonのレビューにも「読むのも辛い」と書かれている本。
これが、自殺研究の後進性なのかな、と思いました。
(実際、私も半年くらい寝かしていたわけですが・・・)
日本は、11年連続自殺者3万人越えの「自殺大国」です。
『自殺対策白書』では、「自殺死亡率」(人口10万に当たりの自殺者数)の国際比較が行われています。
日本(23,7)は、先進国中ぶっちぎりの1位です。
旧ソ連圏の自殺者は多く、リトアニア(38,6)、ベラルーシ(35,1)、ロシア連邦(32,2)となっております。
ちなみに、韓国(21,9)、フィンランド(20,1)、フランス(17,6)、中国(13,9)、ドイツ(13,0)、アメリカ(11,0)・・・といった具合です。
(『自殺対策白書』http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/whitepaper/w-2009/pdf/gaiyou/index.html)
まずは、自殺の議論を、経済政策・福祉政策等と同等の立場に引き上げる事が必要だと思います。
その上で、対処法を考えなければいけない。
今までは、(おそらく)個人の問題だから無関心、道徳的に訴える、窓口を設ける…といったものが多かったと思います。
最近では、「自殺」の社会的背景の研究も増えてきていると思います。
私自身、本来、自殺に対する研究はもっと多くていいのかな、と思います。
社会科学に限らず、全ての学問は「人間が生きていること」を前提に行われていると思います。
習得する人間がいなかったら、学問は意味を成しません。
また、経済学からは以下のようにも考えられます。
市場から労働力商品が減少するわけですから、剰余価値も生み出されず、資本の蓄積は起ここらなくなります。
(そもそも、「命」についてこのような表現しか出来ないこと自体、多きな問題だと思います)
さて、11年連続自殺者3万人超ですから、これは「社会構造の欠陥」と言ってもかまわないと思います。
ただ、「何かがおかしい」と思っても、「何がおかしいのか」分からない。
だから、10年以上もこんなにも多くの方がなくなっている。
10年以上もこのような問題が継続的に続いているのだから、アカデミズムも政治もあてにならない、と思ってしまいます。
おそらく、初めて3万人超だった1998年の前年、1997年には拓殖銀行、山一證券の破産等、経済状況が芳しくなく、それ以降続いている不況の影響ではないか、と仮定をたてます。
すると、倒産件数に限ると1998年(17,497件)に対し、1984年(20,363件)となっており、その前後も98年より多くなっています。
(帝国データバンクhttp://www.tdb.co.jp/report/tosan/syukei/05nen.html)
目の敵とされている「派遣」も、政治の分配機能を働かせれば解決できる問題だと思います。(まあ、働いていないから目の敵なのでしょうけど…)
とまあ、八方塞です。
よく分からない。
日本の階級構造の不変動性等、色々見てみたのですが、現時点ではよく分かりません。
そもそも、「社会的」というのが分からない。
これは重要なことだと思います。
イデオロギー、風土、哲学、宗教、歴史…等、多くの要素からなっているものだと思います。
これが分かれば、人々の行動原理が分かる。
だから、宗教や哲学の分野の研究は豊富なのだと思います。
これが分かれば、北海道に経済理論を根付かせる事も可能だと思います。
とは言っても、これは難しい。
お師匠さんの仰る様に、足でかせぐしかないと思っています。
これから、多くの方にお世話になることと存じます。
宜しくお願い申し上げます。
寝込むと言いましても、ずっと寝ていられるわけもなく、ほとんどは読書の時間です。
こう、寝る以外に何もやることが無い、という状態に方が、読書には向いているようです。
(通勤・通学の電車の中のような感じです)
「病」は、自殺者の最も多い理由の一つです。(実際はより複合的です)
病床の中で、斎藤貴男『強いられる死 自殺者3万人超の実相』角川学芸出版 、2009を読みました。
著書の中で「書くのが辛い」と述べられており、またAmazonのレビューにも「読むのも辛い」と書かれている本。
これが、自殺研究の後進性なのかな、と思いました。
(実際、私も半年くらい寝かしていたわけですが・・・)
日本は、11年連続自殺者3万人越えの「自殺大国」です。
『自殺対策白書』では、「自殺死亡率」(人口10万に当たりの自殺者数)の国際比較が行われています。
日本(23,7)は、先進国中ぶっちぎりの1位です。
旧ソ連圏の自殺者は多く、リトアニア(38,6)、ベラルーシ(35,1)、ロシア連邦(32,2)となっております。
ちなみに、韓国(21,9)、フィンランド(20,1)、フランス(17,6)、中国(13,9)、ドイツ(13,0)、アメリカ(11,0)・・・といった具合です。
(『自殺対策白書』http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/whitepaper/w-2009/pdf/gaiyou/index.html)
まずは、自殺の議論を、経済政策・福祉政策等と同等の立場に引き上げる事が必要だと思います。
その上で、対処法を考えなければいけない。
今までは、(おそらく)個人の問題だから無関心、道徳的に訴える、窓口を設ける…といったものが多かったと思います。
最近では、「自殺」の社会的背景の研究も増えてきていると思います。
私自身、本来、自殺に対する研究はもっと多くていいのかな、と思います。
社会科学に限らず、全ての学問は「人間が生きていること」を前提に行われていると思います。
習得する人間がいなかったら、学問は意味を成しません。
また、経済学からは以下のようにも考えられます。
市場から労働力商品が減少するわけですから、剰余価値も生み出されず、資本の蓄積は起ここらなくなります。
(そもそも、「命」についてこのような表現しか出来ないこと自体、多きな問題だと思います)
さて、11年連続自殺者3万人超ですから、これは「社会構造の欠陥」と言ってもかまわないと思います。
ただ、「何かがおかしい」と思っても、「何がおかしいのか」分からない。
だから、10年以上もこんなにも多くの方がなくなっている。
10年以上もこのような問題が継続的に続いているのだから、アカデミズムも政治もあてにならない、と思ってしまいます。
おそらく、初めて3万人超だった1998年の前年、1997年には拓殖銀行、山一證券の破産等、経済状況が芳しくなく、それ以降続いている不況の影響ではないか、と仮定をたてます。
すると、倒産件数に限ると1998年(17,497件)に対し、1984年(20,363件)となっており、その前後も98年より多くなっています。
(帝国データバンクhttp://www.tdb.co.jp/report/tosan/syukei/05nen.html)
目の敵とされている「派遣」も、政治の分配機能を働かせれば解決できる問題だと思います。(まあ、働いていないから目の敵なのでしょうけど…)
とまあ、八方塞です。
よく分からない。
日本の階級構造の不変動性等、色々見てみたのですが、現時点ではよく分かりません。
そもそも、「社会的」というのが分からない。
これは重要なことだと思います。
イデオロギー、風土、哲学、宗教、歴史…等、多くの要素からなっているものだと思います。
これが分かれば、人々の行動原理が分かる。
だから、宗教や哲学の分野の研究は豊富なのだと思います。
これが分かれば、北海道に経済理論を根付かせる事も可能だと思います。
とは言っても、これは難しい。
お師匠さんの仰る様に、足でかせぐしかないと思っています。
これから、多くの方にお世話になることと存じます。
宜しくお願い申し上げます。
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今日、約1ヶ月間たまり続けた新聞を読みました。
気分はクリスマスです。
こう、バーっと一気に読むと、その時々の潮流というか、”ネタ”というものがぼんやりと分かります。
例えば、12月27日の道新の社説は「道開発予算」に関してです。
33年ぶりに5千億円の大台を割り込んだ事が大きく載っていました。
前後3日間はこの話題が大きかったと思います。
似た記事では、12月28日道新社説「北海道新幹線」です。
北海道新幹線に関しては、また改めて書こうと思います。
他には、道新1月5日社説「雇用の場」という記事です。
雇用の記事は、派遣村の影響によるのか、比較的多くあります。
実際、生活に関わる問題は、興味を引きやすいですし、何よりも大事な問題だと思います。
そして、何よりも悲しいのは、道新12月26日「自殺12年連続3万人」の記事です。
2009年の交通事故者数が4914人であるのに比べれば、いかに悲惨な状況かというのが分かります。
実際、自殺者数の3倍以上の人が「自殺」によって悲しんでいるわけです。(当然、もっと多いでしょう)
あまりにも多すぎる。
「自ら命を絶つ」のか、「社会に命を絶たされた」のか。
自殺への対応策は、ハローワークの拡充やワンストップ・サービスの拡大では無理です。
「死ぬしかない」と考えて時点で、それらの施設には向かいませんし、なにより、そう思わせた時点でもうダメです。
そして、いつそう思うのか、分からない。
そう思わせたらもうどうしようもない。
だから、そう思わせないための対策が必要なのです。
ただ、それがイマイチ分からない。
つまり、自殺の原因です。
原因は様々考えられます。
しかし、最も多いのは「遺書なし」なのです。
(自殺予防総合センターより、http://ikiru.ncnp.go.jp/ikiru-hp/toukei/doukibetsu.pdf)
となると、「豊かな生活」を送れていない、という非常に抽象的な所に課題があるよな気がします。
しかし、抽象的な分、多角的な分析が出来る。
私は、自殺の大半が経済的によるものだと思います。
しかし、その大半が「目視」出来るものではないとも思います。
例えば、病気を原因に…というものも、治療費が無いわけですし、家族との関係が作れない、というのも、家族団らんを送ることが出来ないほど働かなければならない、わけです。
もちろん、様々な視点があって良いと思いますし、多角的に対策を立てることが何よりも重要だと思います。
そのほかの記事では、意外と元気な室蘭の、ネガティブな側面が出ていた、道新12月22日のフェリー誘致失敗の記事や、マイクロファイナンスの記事(日経12月23日)がありました。
ムハマド・ユヌス氏は、昨年9月29日に札幌で開催された「貧困のない社会づくりを目指して」というシンポジウムで「お会い」しました。(見ただけです)
当時わたしは、彼が行ってる事は労働者に資本を取り戻す、事だと考えました。
マルクスが言っていた、資本と労働者の関係を改善しているのだと思いました。
ただ、これは多方面から非難がありそうなので、もう少し勉強しようと思います。
何よりも衝撃的だったのが、「北海道の独立」(1月5日道新)です。
内容は、冷戦時代に共産化するのではないか・・・というものですが、「独立」という単語だけでも、驚きました。
というか、テンションが上がりました(笑)
これは、ソ連主導ですが、いつの日か道産子主導の記事が載ることが楽しみです。
気分はクリスマスです。
こう、バーっと一気に読むと、その時々の潮流というか、”ネタ”というものがぼんやりと分かります。
例えば、12月27日の道新の社説は「道開発予算」に関してです。
33年ぶりに5千億円の大台を割り込んだ事が大きく載っていました。
前後3日間はこの話題が大きかったと思います。
似た記事では、12月28日道新社説「北海道新幹線」です。
北海道新幹線に関しては、また改めて書こうと思います。
他には、道新1月5日社説「雇用の場」という記事です。
雇用の記事は、派遣村の影響によるのか、比較的多くあります。
実際、生活に関わる問題は、興味を引きやすいですし、何よりも大事な問題だと思います。
そして、何よりも悲しいのは、道新12月26日「自殺12年連続3万人」の記事です。
2009年の交通事故者数が4914人であるのに比べれば、いかに悲惨な状況かというのが分かります。
実際、自殺者数の3倍以上の人が「自殺」によって悲しんでいるわけです。(当然、もっと多いでしょう)
あまりにも多すぎる。
「自ら命を絶つ」のか、「社会に命を絶たされた」のか。
自殺への対応策は、ハローワークの拡充やワンストップ・サービスの拡大では無理です。
「死ぬしかない」と考えて時点で、それらの施設には向かいませんし、なにより、そう思わせた時点でもうダメです。
そして、いつそう思うのか、分からない。
そう思わせたらもうどうしようもない。
だから、そう思わせないための対策が必要なのです。
ただ、それがイマイチ分からない。
つまり、自殺の原因です。
原因は様々考えられます。
しかし、最も多いのは「遺書なし」なのです。
(自殺予防総合センターより、http://ikiru.ncnp.go.jp/ikiru-hp/toukei/doukibetsu.pdf)
となると、「豊かな生活」を送れていない、という非常に抽象的な所に課題があるよな気がします。
しかし、抽象的な分、多角的な分析が出来る。
私は、自殺の大半が経済的によるものだと思います。
しかし、その大半が「目視」出来るものではないとも思います。
例えば、病気を原因に…というものも、治療費が無いわけですし、家族との関係が作れない、というのも、家族団らんを送ることが出来ないほど働かなければならない、わけです。
もちろん、様々な視点があって良いと思いますし、多角的に対策を立てることが何よりも重要だと思います。
そのほかの記事では、意外と元気な室蘭の、ネガティブな側面が出ていた、道新12月22日のフェリー誘致失敗の記事や、マイクロファイナンスの記事(日経12月23日)がありました。
ムハマド・ユヌス氏は、昨年9月29日に札幌で開催された「貧困のない社会づくりを目指して」というシンポジウムで「お会い」しました。(見ただけです)
当時わたしは、彼が行ってる事は労働者に資本を取り戻す、事だと考えました。
マルクスが言っていた、資本と労働者の関係を改善しているのだと思いました。
ただ、これは多方面から非難がありそうなので、もう少し勉強しようと思います。
何よりも衝撃的だったのが、「北海道の独立」(1月5日道新)です。
内容は、冷戦時代に共産化するのではないか・・・というものですが、「独立」という単語だけでも、驚きました。
というか、テンションが上がりました(笑)
これは、ソ連主導ですが、いつの日か道産子主導の記事が載ることが楽しみです。
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昨年の暮れ、ポストに入ってました。
函館市の広報誌のようなものです。
ページをめくりますと、西尾函館市長の挨拶とともに、鹿内青森市長のあいさつが見開き1ページにわたって掲載されています。
私としては、函館は「北海道」以上に「青函圏」に属すると考えています。
このことは、北海道の領域を、「地理的分断」ととるか、「生活文化領域」ととるか、とう問題だと思います。
元来、北海道には歴史というものが無いため、「生活文化」とよべるようなものが存在しないのではないか、と思います。
純粋な「北海道人」たるものは存在しない(もちろん、アイヌ民族は北海道において生活文化を熟成してきたっわけですが、それが北海道人に影響を与えてるとは、どうも考えられない)わけで、その多くが本州からの移民です。
「内地」という言葉には、「辺境」としての思いのほかに、本土を懐かしむ思いが込められている、と本で読んだことがあります。(どの本だか忘れました。たしか、龍馬記念館にあった本だと思います。)
なので、北海道は現在、「地理的分断」によって1つの領域を形成しているわけです。
しかし、函館の場合、歴史上「北海道」との結びつきよりも、「内地」との結びつきが強いと思います。
特に、「青函圏」は一つの生活文化的領域が作れるのでないか、と思います。
(ただ、この点に関しては、まだ勉強不足のところも多く、青函圏の歴史を学びたいと考えています)
そうなると、「北海道」という領域が不確かなものとなってきます。
札幌の一極集中にも、歯止めがかかるかもしれません。
ただし、昨今の函館市が発信している青函圏の結びつきには、「新幹線」という大規模事業が大いに関連しているよな気もします。
青森市との「ツインシティ」盟約が結ばれたのが平成3年です。
当時の社会状況と「ツインシティ」の歴史を眺める必要もあると思います。
函館市の広報誌のようなものです。
ページをめくりますと、西尾函館市長の挨拶とともに、鹿内青森市長のあいさつが見開き1ページにわたって掲載されています。
私としては、函館は「北海道」以上に「青函圏」に属すると考えています。
このことは、北海道の領域を、「地理的分断」ととるか、「生活文化領域」ととるか、とう問題だと思います。
元来、北海道には歴史というものが無いため、「生活文化」とよべるようなものが存在しないのではないか、と思います。
純粋な「北海道人」たるものは存在しない(もちろん、アイヌ民族は北海道において生活文化を熟成してきたっわけですが、それが北海道人に影響を与えてるとは、どうも考えられない)わけで、その多くが本州からの移民です。
「内地」という言葉には、「辺境」としての思いのほかに、本土を懐かしむ思いが込められている、と本で読んだことがあります。(どの本だか忘れました。たしか、龍馬記念館にあった本だと思います。)
なので、北海道は現在、「地理的分断」によって1つの領域を形成しているわけです。
しかし、函館の場合、歴史上「北海道」との結びつきよりも、「内地」との結びつきが強いと思います。
特に、「青函圏」は一つの生活文化的領域が作れるのでないか、と思います。
(ただ、この点に関しては、まだ勉強不足のところも多く、青函圏の歴史を学びたいと考えています)
そうなると、「北海道」という領域が不確かなものとなってきます。
札幌の一極集中にも、歯止めがかかるかもしれません。
ただし、昨今の函館市が発信している青函圏の結びつきには、「新幹線」という大規模事業が大いに関連しているよな気もします。
青森市との「ツインシティ」盟約が結ばれたのが平成3年です。
当時の社会状況と「ツインシティ」の歴史を眺める必要もあると思います。
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明けましておめでとう御座います。
旧年中は格別なご高配を賜り、まことに有難く厚く御礼申し上げます。
函館に在住するのも、あと3ヶ月となりました。
残りわずかとなってしまいましたが、函館を楽しみ、何かを残していきたいと思います。
本年も、より一層のご支援を賜りますよう、また御指導御鞭撻のほど、心よりお願い申し上げます。
旧年中は格別なご高配を賜り、まことに有難く厚く御礼申し上げます。
函館に在住するのも、あと3ヶ月となりました。
残りわずかとなってしまいましたが、函館を楽しみ、何かを残していきたいと思います。
本年も、より一層のご支援を賜りますよう、また御指導御鞭撻のほど、心よりお願い申し上げます。
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