当然ですが、太陽も惑星も自分が動かしているわけではありません。
また心臓も右手も自分が動かしているわけではありません。
思いも想いも自分でコントロールなどしていません。
考えも、そうです。
でも、僕たちは、事実の移り変わりを認識して、自己というものを、そこに持ち込もうとするわけです。
自己とは、一体全体、なんなのか?
体であるのか、脳内であるのか、何処までが自己で、何処からが、そうでないのかを見る必要があります。
自分の身体も脳内も、また太陽も惑星も、自己のコントロール下にはないのですから、自己の存在している場所はどこですか?
思念ですね。
想いの中に俺や私、まあワシでもワイでもいいんですが、その人物というものがいることになっています。
しかし、この私、はいったい何ができるでしょう。
なぜなら、これあってこれありの縁起の現実は、諸行無常で、その折々に、動いているのだから捉えようがないからです。
自己は、その事実に認識した記憶が、私が何々したといちいち言わない。
私が、俺がという分別は一体どこから出てきたのかと言えば、成長した肉体と意識が、人格を形成したとなります。
はあ、なんか支離滅裂な気がしてきたけど、指は疲れるなあ…
また心臓も右手も自分が動かしているわけではありません。
思いも想いも自分でコントロールなどしていません。
考えも、そうです。
でも、僕たちは、事実の移り変わりを認識して、自己というものを、そこに持ち込もうとするわけです。
自己とは、一体全体、なんなのか?
体であるのか、脳内であるのか、何処までが自己で、何処からが、そうでないのかを見る必要があります。
自分の身体も脳内も、また太陽も惑星も、自己のコントロール下にはないのですから、自己の存在している場所はどこですか?
思念ですね。
想いの中に俺や私、まあワシでもワイでもいいんですが、その人物というものがいることになっています。
しかし、この私、はいったい何ができるでしょう。
なぜなら、これあってこれありの縁起の現実は、諸行無常で、その折々に、動いているのだから捉えようがないからです。
自己は、その事実に認識した記憶が、私が何々したといちいち言わない。
私が、俺がという分別は一体どこから出てきたのかと言えば、成長した肉体と意識が、人格を形成したとなります。
はあ、なんか支離滅裂な気がしてきたけど、指は疲れるなあ…
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