こんにちは お元気でしょうか?
当ブログの左側サイドバーに毎月「今月の歌」を載せてきましたが、一応2月で一区切り
つけさせて頂きたいと思います。
最近何故か、YouTubeでここにちょうどいい歌が見つけにくくなってきまして。
また再開することがありましたらよろしくお願いいたします。(^-^*)☆・*。
今日は、去年出かけたドイツのワイマールという街をご案内します。
耳慣れない街、というかたが多いかもしれません。
ドイツ国土のちょうど中央のやや右寄りといったところにあり、ドイツが統一されるまでは
東ドイツでした。
わたしも、ワイマール憲法くらいの前知識しかなかったのですけど、当地に行ってみますと
憲法などよりもむしろ、文豪ゲーテやシラーが住んで活躍した文芸の街としてたいへん有名
な街と知りました。
ゲーテとシラーの友情の力でドイツ古典主義を確立させ、この街が世界遺産になったのも
「古典主義の都ワイマール」として評価されたからだそうです。
ちょっと面白い街でした。
ライプツィヒからバスでゲーテ街道を走り、ワイマールに到着しました。
↓下の写真は、ワイマールの街で。
当日はお天気も良くて、わたしが趣味で集めている装飾吊り看板の写真も綺麗に撮れました!
後でいたしますね。
↓下は、ワイマール国民劇場。
劇場の前に立っているのは左側がゲーテ、右側がシラーです。共に手をたずさえて。
ゲーテはここの劇場監督を務め、ワイマール歌劇団を主宰して、自作の「ファウスト」や
シラーの「ウィリアム・テル」の初演などをここで行いました。
この劇場は歴史的には、なかなか重要な劇場でした。
戦後にできた日本の新憲法はドイツのワイマール憲法を参考にして草案されたそうですけ
ど、ワイマール憲法の制定会議は1919年にこの国民劇場で開かれ制定されています。
ドイツでは、制定された土地の名を憲法の呼び名にする習慣があるそうです。
後年、リストやリヒャルト・シュトラウスといった著名な作曲家たちもこの劇場の音楽監督
を務め、ワーグナー作曲のオペラ「ローエングリン」もここで初演されました。
劇場では現在も、オペラや演劇、コンサートなどが公演されているそうです。
↓下の写真は、上の国民劇場から300mほどの場所にあるゲーテハウス(ゲーテの家)。
アパートのように見えますけど、ではなくて、ゲーテ個人の邸宅だそうです。
ゲーテ(1749~1832)は家族と共に50年間ワイマールに住んでいたそうで、この家
で数々の名作を執筆し、83歳で息を引き取ったのもこの家でした。建物は当時のままです。
ゲーテは、レオナルド・ダ・ヴィンチなどと同じように万能天才で、何でもできたのですね。
詩人であり、小説家、劇作家、自然科学者、法律家、そして政治家もやっていました。
政治家として要職に就き、ワイマール公国の宰相(総理大臣)も務めています。
↓下の黄色い家は、シラーが住んでいた家。
シラーは後年、家族を連れてワイマールに移り住んできました。
思想的に意気投合したゲーテが10歳年下のシラーをすっかり気に入って呼び寄せたのです。
その後ろにあるのはシラー博物館。
↓シラー博物館。
シラーって、素敵なルックスの人だったんですよ。
シラーといえば、ベートーヴェンの交響曲第九番「合唱付き」の詞を書いた人としてよく知ら
れています。日本では年末によく聴く第九のあの「歓喜の歌」の詞ですね。
シラーは、1805年に肺病で46歳の若さで↑上の家で亡くなっています。
ゲーテは落ち込みましたけど、また立ち直って創作活動を続けてゆきます。
↓下は、シラーの家のある表通りで、シラーについて何か宣伝しているゲーテ像だそうです。
↑古典主義という無形のものを世界遺産として目に見えるようにアピールしようとすれば、
こんな形しかないのかもしれませんね。
ゲーテとシラーが苦笑しているかもしれません。
↓街のお店やホテルの前には、装飾吊り看板も所々に掛かっていました。
↓昔のドイツの女性のいでたちでしょうか。映画で見たことがあるような。
ここまでは、西ドイツ側の吊り看板とほとんど変わらないのですけど、なかには、西側とは
かなり雰囲気が違う吊り看板も見られました。
↓KELLERというのは、地下酒場です。
上の二つは、ソ連の支配下にあった東欧諸国で見るような吊り看板だと思いました。
東ドイツも実質、ソ連に支配されていたのですけど。
細い鉄の棒を曲げたラインなどが西側では見られない独特の雰囲気。
次回もう一回ワイマールを歩きたいと思います。
少しずつ暖かくなっているようですね。ちょっとほっとしています。