まりっぺのお気楽読書

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ポーランド王アウグスト2世愛妾 ウルスラ・カタリーナ

2009-11-22 09:03:03 | 王の寵姫・愛妾
なんだかんだで最後まで王の側にいた愛妾
テッシェン公 ウルスラ・カタリーナ・フォン・アルテンボックム


1680~1743/愛妾 1700~1734?

ウルスラ・カタリーナは執事の娘でした。
15歳の時、ポーランドで最も影響力があると言われたルボミンスク家の
イェルジー・ドミニクと結婚しました。

         

ルボミンスク家はソビエスキ家のヤン3世の死後
知人の大司教に、ポーランド王に推挙されたりもしたのですが
選挙よって王に就いたのはヴェッティン家のアウグスト2世でした。

その後なぜか、教皇はイェルジーとウルスラの結婚を無効にします。
実はアウグスト2世はすでに美しいウルスラの事を知っていて
夫婦の結婚が破綻したと知るやいそいそと近づいてきます… ってことは新王の差し金か?

イェルジーは王位と同時に妻をも失う事になったわけですね。

1700年、ウルスラはアンナ・マクシミアリアーネ・フォン・ランベルクに変わって
公妾の座を手にします。

             
               こちらマリア・マクシミリアーネ
              後にもとポーランド王ヤン3世の王子の愛妾になってます


ドレスデンの宮廷はすぐさまウルスラの美しさに魅了されました。
1704年に子供を生むとテッシェン公に叙位されましたが
これは敬称のようなもので領地などを含むものではありませんでした。

しかしたった1年後、ウルスラの座はアンナ・コスタンシアに奪われます。
飽きっぽい人だね アウグスト2世って人は。

傷ついたウルスラはホイエルスヴェルダの別荘に引っ込み
一度はシュレージェンに移ったのでしたが
アンナ・コンスタンシアが退けられると再び宮殿に登場します。
すでに新しい愛妾のデーンホフ夫人がいましたのが大人しく内気な女性で
ウルスラは宮廷で幅を利かすことができたみたいです。

そうこうしているうちにヴュルテンブルク=ヴィンネンタル家の公子で
10歳年下のフリードリヒ・ルドヴィクが彼女に恋をします。
傍系とはいえヴュルテンブルク家は名家です。
1722年、ウルスラはフリードリヒと極秘に結婚しました。
フリードリヒの家に反対されるからか、アウグストにばれちゃならなかったのか?
極秘結婚の理由は分かりません。

              
             とても上の肖像画と同じ人だと思えませんが…
                     威厳たっぷりのウルスラです


1773年、アウグスト2世が亡くなるとウルスラは宮廷を追放されました。
不幸は続くもので、翌年夫のフリードリヒがグアスタッラの戦いで戦死します。
ヴュルテンブルク家の反論にもかかわらず、ウルスラはフリードリヒの妻であると
主張して死ぬまで夫の姓を名のり続けました。

相次いで後ろ盾を無くしたウルスラでしたが、アウグストから譲られていた
ホイエルスヴェルダを1737年まで治めました。
それにアウグスト2世を継いだアウグスト3世からも
年金を与えられていたので、老後は安泰だったんじゃないかしらね。

1743年、ドレスデンで亡くなりました。

愛妾には、捨てられても年金をもらっていたり宮廷に残ったりする人と
完全に見捨てられる人の2パターンがあるみたいですが
その差はどこからでるのでしょう?

王の懐具合なのかしら? それとも愛妾としての尽くしてくれたから?
あとから何かを暴露しそうな人にも払っとかなきゃね。
浮気も金がかかる… って国民から搾り取った税金じゃないのっ

(参考文献 Wikipedia英語版)

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