国家を揺るがす女遊び
“ スタブレット ” アンヌ・カトリーネ・ベンターゲン
1745~1805/愛妾 1767~1768
アンヌは兵士ヨハン・エルネスト・ベンターゲンの妻アンヌ・マリーの私生児です。
父親は名付け親のブラウンシュヴァイク=ベーヴァン公ゲオルク・ルートヴィヒだと
言われていました。
母の嫁ぎ先である将校の家で育てられていましたが、8歳の時に母親が働いている
ブーツ工場に逃げ込み “ スタヴレット(ブーツ)” というニックネームがつきました。
アンヌは美しくて背が高く魅惑的な容姿をしていたようです。
肌が褐色で、人々は彼女の母親がアフリカの生まれだと信じていました。
アンヌは、貧しいけれど美しく、気位の高い少女が選びがちな道に進みます。
女優と名乗ってはおりましたがそれは表向きで、高級娼婦になりました。
英国やオーストリアの大使に囲われていました。
クリスチャン7世は若い頃から取り巻きたちと遊び歩いていましたので
その頃にアンヌと出会ったのだと思われます。
王なのに彼女を訪ねて売春宿に出入りしていました。
アンヌは1767年から愛妾になりました。
クリスチャン7世はその前の年にカロリーネ・マチルデと結婚していましたが
アンヌと連れ立って王立劇場の舞踏会に現れたりして王妃は放ったらかしでした。
アンヌったら、ただの遊び相手として栄華を謳歌していればよかったものを
クリスチャン7世を焚き付けて時の内閣を倒そうなどとしたものだから
危険人物と見なされるようになってしまいます。
しかもクリスチャン7世がアンヌを王宮にまで連れてきたものだから宮廷大騒ぎ!
ふたりのことはスキャンダルになり、アンヌを排除しようという考えが膨らみました。
追放にはフレデリク5世未亡人ユリアーネ・マリーも加わって
1768年、とうとうアンヌは逮捕されました。
出生云々で差別するわけではありませんが、やはり庶民の家の出の娘です。
なんら政治的後ろ盾も知識もないまま、好き嫌いだけで内閣を倒そうとしても
上手くいくわけがありませんよね。
クリスチャン7世からして宮廷内では見限られていたような状態なのに…
急に宮廷なんかに出入りするようになって浮かれてしまったのでしょうか?
大勢の人にへーこらされて、自分に力があると錯覚してしまったのかもしれません。
ホルシュタインのノイミュンスターに投獄されたアンヌでしたが
丁重に扱われ2年後からは年金も支給されました。
ただクリスチャン7世に会われては困るので王家の監視下に置かれていました。
クリスチャン7世も1768~1769年の欧州旅行の際にアンヌに会おうとしましたが
失敗に終わりました。
以後ふたりは会うことはなかったようです。
アンヌはさっさと割り切ったようで、1670年には弁護士メイズと結婚し15年後に離婚、
その年に15歳年下の音楽家シュエーダーと再婚しています。
その後はわかりませんが、たぶん押し出しの強い貫禄充分のパトロンとして
一生を送ったんじゃないかなぁ…なんて考えられます。
相手の音楽家も有名じゃないみたいだし、尻にしいていたんじゃないかしら?
1805年にホルシュタインで亡くなりました。
(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
デンマーク、スウェーデン、ノルウェーの歴史をわかりやすく
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね
“ スタブレット ” アンヌ・カトリーネ・ベンターゲン
1745~1805/愛妾 1767~1768
アンヌは兵士ヨハン・エルネスト・ベンターゲンの妻アンヌ・マリーの私生児です。
父親は名付け親のブラウンシュヴァイク=ベーヴァン公ゲオルク・ルートヴィヒだと
言われていました。
母の嫁ぎ先である将校の家で育てられていましたが、8歳の時に母親が働いている
ブーツ工場に逃げ込み “ スタヴレット(ブーツ)” というニックネームがつきました。
アンヌは美しくて背が高く魅惑的な容姿をしていたようです。
肌が褐色で、人々は彼女の母親がアフリカの生まれだと信じていました。
アンヌは、貧しいけれど美しく、気位の高い少女が選びがちな道に進みます。
女優と名乗ってはおりましたがそれは表向きで、高級娼婦になりました。
英国やオーストリアの大使に囲われていました。
クリスチャン7世は若い頃から取り巻きたちと遊び歩いていましたので
その頃にアンヌと出会ったのだと思われます。
王なのに彼女を訪ねて売春宿に出入りしていました。
アンヌは1767年から愛妾になりました。
クリスチャン7世はその前の年にカロリーネ・マチルデと結婚していましたが
アンヌと連れ立って王立劇場の舞踏会に現れたりして王妃は放ったらかしでした。
アンヌったら、ただの遊び相手として栄華を謳歌していればよかったものを
クリスチャン7世を焚き付けて時の内閣を倒そうなどとしたものだから
危険人物と見なされるようになってしまいます。
しかもクリスチャン7世がアンヌを王宮にまで連れてきたものだから宮廷大騒ぎ!
ふたりのことはスキャンダルになり、アンヌを排除しようという考えが膨らみました。
追放にはフレデリク5世未亡人ユリアーネ・マリーも加わって
1768年、とうとうアンヌは逮捕されました。
出生云々で差別するわけではありませんが、やはり庶民の家の出の娘です。
なんら政治的後ろ盾も知識もないまま、好き嫌いだけで内閣を倒そうとしても
上手くいくわけがありませんよね。
クリスチャン7世からして宮廷内では見限られていたような状態なのに…
急に宮廷なんかに出入りするようになって浮かれてしまったのでしょうか?
大勢の人にへーこらされて、自分に力があると錯覚してしまったのかもしれません。
ホルシュタインのノイミュンスターに投獄されたアンヌでしたが
丁重に扱われ2年後からは年金も支給されました。
ただクリスチャン7世に会われては困るので王家の監視下に置かれていました。
クリスチャン7世も1768~1769年の欧州旅行の際にアンヌに会おうとしましたが
失敗に終わりました。
以後ふたりは会うことはなかったようです。
アンヌはさっさと割り切ったようで、1670年には弁護士メイズと結婚し15年後に離婚、
その年に15歳年下の音楽家シュエーダーと再婚しています。
その後はわかりませんが、たぶん押し出しの強い貫禄充分のパトロンとして
一生を送ったんじゃないかなぁ…なんて考えられます。
相手の音楽家も有名じゃないみたいだし、尻にしいていたんじゃないかしら?
1805年にホルシュタインで亡くなりました。
(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
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