まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

デンマーク王クリスチャン4世妃 キルステン

2010-03-14 00:29:39 | デンマーク王妃
ステージ・ママのおかげで王の妻に
クリスチャン4世建設王妃 キルステン・ムンク


1598~1658/在位せず

キルステンは、非常に裕福だけど貴族ではないルドヴィグ・ムンクの娘です。
父は早く亡くなり、残ったのはパワフルな母エリン・マルスヴィン。

        
エリンの根回しでさっさとクリスチャンに身を任せちゃったキルステンは
愛妾ではなく妻になることを約束されて資産も与えられました。
とは言っても、前妃アンナの死から3年後の1615年に結婚しました時
貴賤結婚ということで、教会で式を挙げることはできませんでした。

王妃の栄誉は手に入らなかったものの、次々に子供生んだキルステンは
1627年にシュレスヴィヒ=ホルシュタイン伯爵夫人の称号を得ることができました。

呼び名はどうであれ君主の妻ですもの。
ファーストレディの豪勢で優雅な毎日であることにかわりはありませんね。
このまま平穏な日々が過ぎればよかったのですが…

キルステンより21歳年上のクリスチャンは、50歳を前にして健康が衰えを見せ始め
結婚生活も沈みがちに… で、浮気心が芽生えちゃって…
騎馬隊長オットー・ルドヴィクと恋に落ちてしまいました。

コペンハーゲン、フュン、クロンボー、ありとあらゆる所で逢い引きするもんだから
ついにはクリスチャンにもバレてしまいます。
クリスチャンは、1629年に生まれた12番目(!)の娘ドロテアのことは認知せず
“ 残り物 ” と呼びました。

ちょうどその頃、クリスチャンには新しい愛妾ヴィーベケ・クルセがいて
キルステンと別れるように焚き付けていました。

キルステンは浮気を否定し、パワフルな母エリンは
なんとかクリスチャンの怒りを鎮めようと頑張っていましたが
クリスチャンはキルステンの不貞を責めるだけじゃなく
「魔女と会って魔術を使っている」なんてことまで言い出して
その年のうちに離婚を言い渡しました。

キルステンはユトランドに追放された後も逮捕されたり審問にかけられたり…
監禁は1646年まで続きました。
どうやら裏ではヴィーベケが「もっと厳しくしなさいよ!」と言っていたらしい。

キルステンはね、自分の子供たちだけでなく
前妃アンナ・アフ・ブランデンブルクの子供たちとも上手くいっていたそうです。
子供たちは父王がキルステンを処刑するのを度々止めさせ
1647年にはキルステンの逮捕を無効にしました。

1648年、クリスチャンは死の床でキルステンにひと目会おうと彼女を呼んだそうです。
でもキルステンは間に合いませんでした。
ほらごらん、若い女の言うことをホイホイ聞いてるから!

クリスチャンの死後ヴィーベケが追放されて一件落着した後は
自分の結婚と子供たちの正当性を認めてもらえるよう奔走しました。

1648年から3年間は、義理の息子フレデリク3世の議会にも参加していました。
老後は安泰ですね… と思ったらまた…

キルステンはスウェーデン寄りの娘レオノーラとその夫ウルフレドに加担して
スウェーデン王クリスチャン10世のデンマーク侵略と占有の資金を融通したのでは?と
白い目で見られることになりました。

1658年にキルステンが亡くなった時
デンマークはまだスウェーデンに占拠されていました。
てなわけで、キルステンのお葬式はオーデンセで荘厳に執り行われたそうです。
やっぱり融通してました?

前妃の子供たちにも慕われていたということは、公平で人当たりの良い
所謂良くできた女性だったかもしれませんね。
浮気が隠しきれなかったり、娘婿の味方になったりとお人好しな感じもします。
貴族でなくて大商人の奥方なんかだったら、たくさんの使用人にも頼りにされる
切り盛り上手な女主人になれたんじゃないかしら?

エリン(お母様)は自分が貴族になりたいからって娘を使うんじゃない!
自分でなんとかしなさい

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« デンマーク王クリスチャン4世... | トップ | 『園芸家12ヶ月』冬の園芸ラ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

デンマーク王妃」カテゴリの最新記事