こちらはふたりめの妃アーグネス
継承者争い激化!!
アンドラーシュ3世妃 フェネンナ
1276~1295頃/在位 1290~1295
ラースロー4世と王妃イジャベラの間に嫡子が生まれなかったもので
またいとこ? のアンドラーシュが王位を継承することになりました。
アンドラーシュ3世の最初の妃フェネンナについてはあまり情報源が無く
その存在も19世紀になってわかってきたそうです。
うーん…たしかに存在感はないかしらね
アンドラーシュ3世は即位すると、すぐにポーランドとの同盟を締結しようと考えます。
そこでポーランド王家ピアスト家の一員イノヴロツワフ公ジェモミスウの娘フェネンナとの
縁談が決まりました。
フェネンナは14歳、アンドラーシュ3世は10歳ほど年上でした。
でも、ものすごく望まれて嫁いだ割に…と申しましょうか
フェネンナの親戚関係がありがたがられるだけで
宮廷で重要視されてはいなかったようです。
この同盟はとても有益なものだったようで
アンドラーシュはアンジュー家のシャルル・マルテルとの戦いを
ピアスト家はボヘミア王ヴァーツラフ2世&グウォグフ公ハインリヒ3世との戦いを
お互い助け合うことができました。
しかしフェネンナの死後は、アンドラーシュは敵方にまわっております。
フェネンナの亡くなった年ははっきりしていませんが
アンドラーシュ3世が1295年に再婚の打診をしていますので
その頃では…と言われています。 埋葬場所も不明です。
ひとり娘のエルジェーベトはボヘミア王太子ヴァーツラフ(3世)と婚約しましたが
破談になり、継母のアーグネスと修道女になりました。
アールパード朝最後の王妃
アンドラーシュ3世妃 アーグネス・ハブスブルグ
1281~1364/在位 1296~1301
ハプスブルク家登場です。
でもハプスブルク家がハンガリー王になるのはもう少し先の話しになります。
アーグネスはドイツ王アルブレヒト1世の王女で、兄にボヘミア王ルドルフ1世がいます。
アーグネスは15歳の時、前妃を亡くしていたアンドラーシュ3世の妃になりました。
こちらもお互いの戦いを助け合うなど、同盟は上手くいった様子ですが
王と王妃の間に嫡子は生まれず、アールパード王家は断絶しました。
1301年、アンドラーシュが亡くなりアーグネスは19歳で未亡人になりました。
再婚もできる年なのに、Königsfeldenの修道院に入り一生を終えました。
その際、9歳になる前妃フェネンナの王女エルジェーベトを連れて行って
一緒に修道女にしちゃったのね…
恐ろしい世間に置き去りにしないのは偉いし、19歳にしてはよくできた継母だが
果たしてエルジェーベト本人はそうしたかったんだろうか?
(参考文献 Wikipedia英語版)
継承者争い激化!!
アンドラーシュ3世妃 フェネンナ
1276~1295頃/在位 1290~1295
ラースロー4世と王妃イジャベラの間に嫡子が生まれなかったもので
またいとこ? のアンドラーシュが王位を継承することになりました。
アンドラーシュ3世の最初の妃フェネンナについてはあまり情報源が無く
その存在も19世紀になってわかってきたそうです。
うーん…たしかに存在感はないかしらね
アンドラーシュ3世は即位すると、すぐにポーランドとの同盟を締結しようと考えます。
そこでポーランド王家ピアスト家の一員イノヴロツワフ公ジェモミスウの娘フェネンナとの
縁談が決まりました。
フェネンナは14歳、アンドラーシュ3世は10歳ほど年上でした。
でも、ものすごく望まれて嫁いだ割に…と申しましょうか
フェネンナの親戚関係がありがたがられるだけで
宮廷で重要視されてはいなかったようです。
この同盟はとても有益なものだったようで
アンドラーシュはアンジュー家のシャルル・マルテルとの戦いを
ピアスト家はボヘミア王ヴァーツラフ2世&グウォグフ公ハインリヒ3世との戦いを
お互い助け合うことができました。
しかしフェネンナの死後は、アンドラーシュは敵方にまわっております。
フェネンナの亡くなった年ははっきりしていませんが
アンドラーシュ3世が1295年に再婚の打診をしていますので
その頃では…と言われています。 埋葬場所も不明です。
ひとり娘のエルジェーベトはボヘミア王太子ヴァーツラフ(3世)と婚約しましたが
破談になり、継母のアーグネスと修道女になりました。
アールパード朝最後の王妃
アンドラーシュ3世妃 アーグネス・ハブスブルグ
1281~1364/在位 1296~1301
ハプスブルク家登場です。
でもハプスブルク家がハンガリー王になるのはもう少し先の話しになります。
アーグネスはドイツ王アルブレヒト1世の王女で、兄にボヘミア王ルドルフ1世がいます。
アーグネスは15歳の時、前妃を亡くしていたアンドラーシュ3世の妃になりました。
こちらもお互いの戦いを助け合うなど、同盟は上手くいった様子ですが
王と王妃の間に嫡子は生まれず、アールパード王家は断絶しました。
1301年、アンドラーシュが亡くなりアーグネスは19歳で未亡人になりました。
再婚もできる年なのに、Königsfeldenの修道院に入り一生を終えました。
その際、9歳になる前妃フェネンナの王女エルジェーベトを連れて行って
一緒に修道女にしちゃったのね…
恐ろしい世間に置き去りにしないのは偉いし、19歳にしてはよくできた継母だが
果たしてエルジェーベト本人はそうしたかったんだろうか?
(参考文献 Wikipedia英語版)
ハンガリー王家の特集楽しく読んでおります。
フランスやイギリス、ハプスブルク家などは教科書にものってるし、映画やドラマにもなってるからわりと知ってるんです。
でもハンガリーやポーランドの王家はこの人だれ?と言う感じです。
私はフランス王ルイ9世が好きなのですが、ちょうど同じ13世紀を扱ってくださるので、たいへん興味深いです。
ナポリのカルロ1世王はこの人の末弟ですし・・ルイ9世は英仏2国の王妃になったアリエノール・ダキテーヌの曾孫、そしてルイ9世もカルロ王も子沢山なので、欧州のはてまで彼女の血筋がひろがったのですね・・・
ハリウッド女優のリーリー・ソビエスキーご存知ですか私は彼女がジャンヌ・ダルクを演じたテレビ番組でその名を知ったのですが、ポーランド王のソビエスキーと関係があるのか長いこと謎でした。
最近検索したら、傍系子孫とでてました。
国王を選挙でえらぶという変わった国もぜひとりあげてください。
ハンガリーとポーランドはトルコの脅威を直接感じなければならなかったという点でも西欧の王家とはかなり違うと思います。
いつもコメントありがとうございます。
書いていただいた女優の方は知らなかったのですが、ソビエスキーとはなにか由緒がありそうな名前ですよね?
私も東欧は家系図を書いていただけで詳しくないのですが、今回ブログにとりあげてみたら、ボヘミア(チェコ)・ポーランド・クロアチア・セルビア、その上神聖ローマ帝国(後半ハプスブルク家)やドイツ諸国まで入り交じって複雑極まりないことになってました。
ルージュさんのおっしゃるとおり、ビザンツやモンゴル、オスマントルコなどの影響も西欧諸国に比べて大きかったようですね。
それにエリザベート・バートリなどを生んだトランシルヴァニア地方とか、暗くミステリアスな印象が強い地域ですよね。
ポーランドとボヘミアはいつか調べてみたいと思います。