まりっぺのお気楽読書

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フランス王ルイ18世妃 マリー・ジョゼフィーヌ

2009-04-08 22:36:57 | フランス王妃・王女
異国の空の下の王妃
ルイ18世妃 マリー・ジョゼフィーヌ・ド・サヴォワ


1753~1810/在位 1795~1810

フランス王はルイ16世までと思われがちですが、ブルボン家をはじめとする貴族たちが
イギリスで亡命政府を樹立しまして、革命後も何代か王はいました。

ルイ18世はルイ16世の弟で、革命後はルイ・シャルルを王とする反革命派で
打倒共和制と王政復古を目ざしていました…ルイ17世を救出せんか!と言いたいわ。
プロヴァンス公時代の1771年にマリー・ジョゼフィーヌと結婚していました。

マリー・ジョゼフィーヌはサルディーニャ王女ですが
少女時代のエピソードが特にありません…夫が王になってから脚光を浴びたみたいです。

マリー・アントワネットに最後まで忠誠を尽くしたために惨殺された
ランバル公妃マリー・ルイーズのまたいとこにあたります。
また、妹のマリー・テレーズは、ルイ18世の弟シャルル(後の10世)に嫁ぎました。

     
さてさて、亡命中の夫を支えていかなければいけない妃でありながら
イギリスに落ち着いたふたりの間には激しい喧嘩が絶えませんでした。
あくまでも噂ですが、マリー・ジョゼフィーヌは侍女のひとりとレズビアンの関係にあり
それが不和の最大の原因だったということです。

1795年にルイ17世死亡の報せが入り、ルイは18世として王の宣言をしますが
フランスに帰れるわけではありません。
同じ年、フランス革命後発足した共和制がナポレオンによって倒されます。
ナポレオンは執政をはじめ、1804年には皇帝になってしまいました。

この間、ヨーロッパの各王国は総力をあげてブルボン王家を援護しました。
姻戚関係や長年のおつき合いなどもありましょうが、それよりなにより自分の国で
革命が起こって新体制が誕生するのを怖れたためだと思われます。
すでにその兆しは各国で見え始めていました。

1814年、イギリス、オーストリアにロシアやプロイセンまで加えた
大連合に敗れたナポレオンはエルバ島に流され、ウィーン会議が開かれました。
ブルボン家の王政復古が成り、ルイ18世は晴れてフランスに帰国しましたが
側にマリー・ジョゼフィーヌの姿はありませんでした。

マリー・ジョゼフィーヌとルイ18世は王を宣言した後から別居生活を続け
彼女は1810年にフランスを再び見ることなく亡くなっていたのです。
遺体は遺言によって故郷のサルディーニャに葬られました。

国の一大事に夫婦喧嘩に終始していたとは呆れますね。
本当なら各国王をもてなして協力を得るように務めなければならない立場なのに。
よっぽど夫が嫌いだったとみえる…

ルイ18世は、帰国後平民などの意見を取り入れた政治体制を試みましたがうまくいかず
革命の元凶ともいえる絶対王政を復活させてしまいました。
この時舵取りを上手くやっていれば、フランスは今でも王国だったかもしれません。
フランスの方々にそれがありがたいことかどうかは分かりませんが
フランス宮廷って華やかで素敵そうじゃない?
すごくスキャンダラスな王室かもしれないけど…

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
コメント
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