まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

『殺人は容易だ』そう言われても…( ̄ヘ ̄;)

2009-02-12 22:05:44 | アガサ・クリスティ
MURDER IS EASY 
1939年 アガサ・クリスティ

昨今のように通り魔的な殺人事件が増えると
たしかにそう思えたりもするんですが…

この物語の題名にある “ 殺人 ” はそういう軽はずみなものではなく
考え抜かれた完全犯罪のことではないでしょうか?
いわば、ちょっとインテリジェンスを感じさせる犯罪というのかしら?

この物語にはポアロもミス・マープルも、トミー&タペンスも
さらにはサタースウェイトもパーカー・パイン氏も登場しませんが
かなり面白く読めました。

植民地から帰って来た元警官のルークが、ロンドンへ向かう列車の中で
老婦人から聞かされた、露見していない殺人の数々、
そして「殺人は容易なんですよ」というひと言…
その後、その婦人が車に轢かれて死亡したことを知ったルークは
彼女が話していた村を訪ねていくことにします。

ルークは友人の紹介で村の名士ホィットフィールド卿の邸宅アッシュ館に滞在し
卿の婚約者であるブリジェットに恋をしてしまいます。

恋心を押さえつつ、捜査を始めたルーク。
村でおきた殺人は少なくとも6件、そしてその死は
なにやらホイットフィールド卿に関係があるように思えます。

ルークはほとんど最後まで犯人を見抜くことができなかったのよね~
彼の推理は、人の言うことに影響されてフラフラしてるんですよ。
ポアロでいうとヘイスティングスがメインで捜査しているようなもの。
(ヘイスティングスよりは少し鋭いかもしれないけど)

それで見当違いの捜査をしているうちに
愛するブリジェットを危険にさらすことに… しっかりしなさい!

村では、列車で会った老婦人の他に、敗血症で急死したドクターの未亡人が
やはりある人物のことを怪しんでいました。
そしてブリジェットもうすうすは気がついていたようです。
やっぱり、直感って女性の方があるのかしらね!!
それとも洞察力に長けている…とか。

ポアロやミス・マープルみたいに、ほぼ最初から目星がついていて…
というのより、一緒になって「あ~かな? こ~かな?」と悩めるのが
主人公がルークで良かったところでしょうか?

すごく練られたストーリーで楽しく読めます
読んでみたいな!という方は下の画像をクリックしてね

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フランス王ルイ8世妃 ブランシユ

2009-02-12 01:18:33 | フランス王妃・王女
肝っ玉王妃
ルイ8世妃 ブランシュ・ド・カスティーヨ


1188~1252/在位 1223~1226

“ 獅子王 ” と呼ばれるルイ8世の妃に最初に選ばれたのは姉ウラッカでしたが
2人の母方の祖母にあたるエリナー・オブ・アキテーヌが姉妹を見比べて
妹ブランシュの方がフランス王妃に相応しいだろうという判断を下し
急遽変更されました。おいおい…
(ちなみにウラッカはポルトガル王アフォンソ2世の妃になります)

       
彼女が祖母のいう資質の片鱗を見せ始めたのは
まだ王太子妃だった28歳の時でした。

1916年、イングランドのジョン王が亡くなりましたが
ブランシュは継承権を持っていたため夫ルイはイングランドに攻め入ります。
父王フィリプ2世は承認は与えたものの、援助はしてくれませんでした。
そこでブランシュは自らカレーで艦隊を編成するなどしてルイをサポートします。
しかしこの侵攻は失敗に終わります。

1226年、ルイ8世が亡くなると、ブランシュは12歳で即位したルイ9世の摂政、
そして、6人とも7人ともいわれる子供たちの後見人になります。
しかし幼王を戴いたカペー王家の状況は厳しく、ブランシュは反王派や
イングランドの野心などを退けなければなりませんでした。

シャンパーニュ伯ティボー4世がブランシュに献身的に尽くしたり
教皇の使節であるロマーノ・ボナヴェンチュアがやけにパリに長居したことで
彼らとあらぬ?噂をたてられたりしました。
ルイ8世はティボー4世と王妃に毒殺されたとの噂までまででる始末。

しかし彼女の強靭な精神はこれらに耐え抜き
巧みな軍事的采配や外交術で臣下に畏敬の念を抱かせ、反王派を撃破します。

こんなにやり手の母を持った息子は…もちろん言いなりになりますよねぇ。
ルイ9世は親政を始めてからもブランシュの影響下にあり
十字軍参加の際には再びブランシュを摂政に指名します。

ブランシュは王の不在を守り、遠い地で闘う息子に物資を送り続けます。
一説にはルイ8世の温厚な性格は、王妃の専横的な態度が形成したものだ、とまで
言われたブランシュですが、やっぱり母親なんですね。

1252年、ムランで高熱にを出したブランシュはパリに連れ帰られますが
回復することなく数日後に亡くなりました。

祖母エリナーは、ブランシュのどの部分がフランス王妃に相応しいと思ったのでしょう?
気の強さ? 賢明さ? したたかさ?
いずれにしても12歳の少女から王妃の素質を見いだすとは…
エリナーは人を見る目があったということでしょうか。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (4)
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