母のことを人に伝えるのには、かなりのエネルギーを要する。
言葉で説明できることは、受け手の持ちあわせている「常識」や「経験」を越えることが難しい。
母はたいてい車椅子に座っているか横になっていて、刺激がなければ力なく眠ってしまっていることが多い。母がどういう人なのか、を、そんな、目に見える範囲だけで判断されやすい。
あなたは、母にどんな可能性を見ることができるだろうか?
母をリハビリ専門医が診てくれた。
この病院には専門医がいないので、月に2回鹿児島から招いているらしい。
母の様子をよく見て、わたしのはなしもよく聞いてくれた。
だけど、この人も母の可能性にふたをした。
「残念ながらできないこと」について語ってはくれたが、これからどうしたらよりよくなるかについては、何一つ収穫を得られなかった。
歩行器にしがみついて、確実に自力で足を運んでみせた母に対して、
「150%の力でがんばっていますね」と繰り返した。
それは一見ほめことばのようであったが、結局そのあとの話は、もうこれ以上はのぞめないだろうね、ということだった。
100%って、いったいどこなんだろう?
母の100%の能力を、会って数分の人が、どうして知ることができるのだろう?
根拠なく患者の可能性にわざわざ限界を設けるようなことが、よりよくなるためにと医者のもとへやってくる患者にとって、必要だろうか?
くやしくてくやしくてしかたがないけれど、信じられないものは、もうムシ!
ぜったいよくなる、少なくとも発熱した6月よりも前の状態まではよくなる、と根拠なくますます希望を見つめることにした。
世界中の人が信じてくれなくてもいい、わたしが信じていればいい。
よくなるには、療法士さんたちの力が必要なんだけど…例の彼は「たいしたもんですね」というリハビリ医に対して「いやぁそれほどでも」という顔。いやいや、“たいしたもん”なのは、母と、苦労や工夫を重ねてきてくれた前の療法士さんのこと!あなた、1人でろくに母を立たせることもまだできないじゃないですか!もう笑うしかないや。
母の回復に関して、正確な評価はさほど重要ではないし(ましてや数字に置き換えるなんてことはまったく意味をなさない)、誉め言葉がほしいわけでもない。
ほしいのは、母のしあわせ、ただひとつ。
だから、できないことを取り上げるより、できることを見つけて、認めて、できれば伸ばす手助けをしたい。
それがきっと母のしあわせに、わたしのしあわせにつながっている。
それがきっと、母の、わたしの、生きる力になる。
もちろん、こういう機会を設けてもらったことは、感謝している。