marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(267回目)ローマ書講義 「信仰義認」(M・ルター)Ⅲ

2017-02-19 19:57:44 | 日記
今回はいきなりM・ルターさんのローマ書講義56・169-172を書きます。数値は先の回に述べたとおりですのでワイマール版ルター全集の巻とページ。前回の続きに掲載されている箇所です。ルーターさんはヴィッテンベルグ大学の神学教授でもありましたから膨大な著作がありますが、特にこの異邦人伝道の使徒パウロの著した「ローマ人への手紙」は、20世紀最大の神学者、K・バルトさんの「ローマ書講義」は今でもこれだけで特に有名ですし、また多くの神学者が取り組んで来ました。なぜならキリスト教の開祖、パウロの神学論文というようなものでもありますし、特に宗教改革者M・ルターがそのプロテスタントの要ともなる「信仰義認」がこの箇所には著されているからです。それでは・・・、
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◆神の義が啓示されている〔第1章17節〕
「人間の教えにおいては、人間の義が、すなわち、誰がどのようにして自分に対しても人々の前でも義であり、義となるかということが示され、教えられる。しかし、神の義(すなわち、だれがどのように神のみまえで義であり、義となるかということ)は、ただ福音において、神の言葉を信じる信仰のみによって啓示される。マルコ福音書の最後の章に「信じて洗礼を受ける者は救われる。信じない者は罪に定められる」〔16:16〕とあるとおりである。つまり、神の義は救いの根拠である。ここでもまた、「神の義」とは、それによって神ご自身が、ご自身において義でありたもう義ではなくて、それによって私たちが神ご自身から義とされるような義として、理解されるべきである。このことは福音を信じる信仰によって生じるのである。ところで聖アウグスティヌスも『霊と文字について』第11章で「神の義とは、神が義を分かち与えて義なる人を造ることを言う。同じく、主の救いとは、それによって主が救われる人を造ることである」と言っている。また、同じ書の第九章でも同じことを言っている。そこでは、種々の行いをもって成り立つ人間の義と神の義との違いが語られている。行いによって成り立つ人間の義については、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』第三巻で明らかにしているが、彼によれば、義は行いの後に続き、行いから生じるものである。しかし、神によれば、義は行いに先行し、行いは義から生じるものである。」訳は徳善義和(日本ルーテル神学大学)
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◇パウロの「ローマ人への手紙」を読んできて、特に今から500年前1517年10月31日(現在、この月日は宗教改革記念日となっています)が宗教改革の開祖、M・ルターが「信仰義認」の言葉を会得して開眼した箇所です。「信仰義認」の教理はまさに教会がそれによって、立ちもし倒れもする条項だと言ったとおりのことです。さて、第1章17節については、以前にK・バルトさんのところに書きましたが改めて次回書こうと思います。
◆ところで、ルターの先の文章を列車にまだ乗り込んでいない人々にどのように説明しようかと考え、僕なりの「例え」を書きたいと思います。(よい例ではありませんが)例えば、ラジオの電波は目には見えませんが、空中を多くの周波数の電波が飛んでいます。僕らの世界の放送局はわかりますが、例えとして神からの特殊な周波数の電波がすべてのものに注がれていると考えます。信仰するとは父なる神からの周波数に対してきちんと波長を合わせること、チューニングする行為と考えてはどうでしょうか。波長を合わせると神の声がよく聞こえるようになる。うまく合わせられないと雑音が大変入ってきますね。つまり、そのよく聞こえてくるとその人が内側から変えられてくる。それが”神の言葉を信じる信仰のみによって啓示される”ということになるという「例え」です。つまり、外側を整えても波長は芯までは届かない、その人の第一なる「信仰により」波長が合わせられるので内心まで波長が届き、神の言葉がきちんと届くことによって、それが外側に反映されてくるのが正しいあり方で、信仰が大優先、そのような手順をとるのである、との解釈です。・・・ 

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