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世界のベストセラーを読む(386回目)天地創造の時の「闇」と「地の混沌」・・・(創世記)

2017-07-14 21:00:00 | 日記
 神が居られて天地を創造され「すべてよし」であったなら、どうして「悪」があるのか・・・というのが、まず普通の方の考えなのであった。学生時代によく友人に問われたのです。ついでに、忘れないことは、クラブの部室で「イエスという男はえらく傲慢な男なのではないのか」と言われたこと。それは、聖書の記事に「イチジクの木が成る季節ではないのに、イエスが弟子と歩いていて、おなかがすいてイチジクの木に近づくとイチジクの実がなっていなかったという」そのとき、イエスが「今後、お前には(木に語りかけてる)実がならないように」と言われて、帰る途中に弟子がそのイチジクの木を見ると枯れていたという話。一見、誰しもが知人のように思うだろうけれど。長年、イエス(キリスト)という方がどういう方なのかということを人生を通して考えてくると、こういう方だったのかというとても深い感動を得るのでしたね。それは、やはり、天地創造来、イエスはどこに居られたのか、どういう方なのかということを考えれば一応理屈的には納得することができるのでした。そういう話をして、一応納得してもらった気がする。
◆さて、まだ創世記第1章の初め・・・やっぱり気になる2節の「地の混沌」と深淵の面にある「闇」、そして水の面を動いていた「神の霊」・・・ 実は、今も僕らが普段に、そして大げさに書けば人間の斬った張ったの歴史は、この「混沌」と「闇」の残骸が、あまりに創造の力の偉大な神の光の下にかすんでしまって、隠れてしまっていたとことに、時折、顔を出し、それに対抗すべく人類の記録となっていくということなのではないだろうか。その闇も父なる神には無論劣るが同等の霊力を持っていて、創造来、その居場所を光に対抗する相手としての位置を示すことを赦されたという意味合いを持つ。人間が光を求めるのは暗いと第一に思わなければ自ら行動を起こさないだろうというトリッガー(引き金)になっている実は重要なそのもの・・・なのではないだろうか。
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 善し悪しに拘わらず主体的自己肯定には、障害となる事象やその心の中の否定的思いの対象物がないと人というものは考え行動を起こさぬものだから。
◆「神の霊」とは一体何だったのだろうか。これと、イエスがイスラエルの教師であるニコデモに対して言われた「地上の事を話して分からなければどうして天上の事を話して分かるだろうか」と、その地上の「霊」の有り様を述べたことにどういう関係があるのだろうか。
そして、実は僕ら人間の歴史というものは、無論、数限りないほどの文字に残らない個人の歴史があるわけだが、天上に帰還するまでのその地上を漂っている「霊」の物質界に作用し拘わる出来事の記録に過ぎないのだろうか。
◆少なくとも僕は、創世記第1章2節に人類の天上への帰還の始原が著されているように思ってしまうのです。・・・ 続く 
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