marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(459回目)余談:この国のアイデンテティーについてつらつらと・・・

2017-11-19 07:27:41 | 日記
 昨日の少し訂正です。真面目に読まれておられる方もおられると信じて・・・「礼拝次第」に入れているどうのこうのというのは後半の「使徒信条」のこと、「・・・教団告白」冒頭からは何処の教会も式文には入れてませんのでわかりにくかったので訂正します。で、天皇が沖縄を訪問されていたことに感じて
◆この国の天皇が古代イスラエルの失われた十部族の末裔に当たるかも・・・というのは興味のある方には知られている。日ユ同祖論というのもありますけれど、近代の隠れた歴史かな。”六千人のピザ”の杉原千畝(スギハラチウネ)さんという方など知られているけれど、昔の外交に携わる方はきちんと勉強していたと思います。戦時中、満州国にユダヤ人の人たちの国を作ろうとしたこともあったとか。
◆昔、この国に来ていたR.マクレオドさんとかいうかたの調査や、僕らの時代にはケン・ジョセフさんが親子の代にわたって調査をして本を出版しているのは、今も読む事ができます。レムナント出版のの久保有政さんものもありますから、面白く読めます。が、しかし、検索すると反論も多いですよ。何でもキリスト教は正しいと言っているだけだとか、精神異常?などとう方もあるようで、人それぞれでいいとは思いますが(ここで是非は問いません)僕はどうも、いつも違う観点に考えがいってしまうのですね。人はそれぞれ、他を批判することも必要ですが、その判断の基について、善いとか悪いとか、波長が合わんとか、イケスカナイとか・・・の、判断基準はどこから来るのだろうと思ってしまうのです。それで、神が人を創造された時に園の中央の”善悪の木の実”を食べてはいけないと言われて、結局食べたのですが、それぞれの人の判断基準が最終問われてくると思うのですね。すべてに於いて・・・。人という生き物はなんぞや!ということを考えてしまうのね・・・  (よく考えてはいない肉に引きずられる言葉・・・これが統べて)
◆先のブログに第94回芥川賞をもらった米谷ふみ子の”過越しの祭”の事を書かせて頂いた(カミュの「異邦人」についても同様)。この内容と同じなのです。ユダヤ人の方は今でも、どこの国であっても”過越しの祭”をその意味を持って祝われているのですが、かたや知らん人は、何を古臭いことを阿呆チャウかぁと一笑する訳です。この違い! 自分のこの国の歴史も知らないで・・・と反論することは止めますが、この論法でいくと、聖書がどうのこうのと屁理屈こねて言うとるより、訳の分からんけど仏教の方がまだ、あれこれ言ってこなくていいわなぁ・・・となる。毎週、楽しい日曜日の午前を礼拝に行き、献金(稼いだお金)を献げて阿呆チャウカとなる、何を訳の分からん死後の世界に保険を掛けるようなことしてんねん!(小説のごとく大阪弁になってきた)となる訳だ。まして”苦難をも喜ぶ”なんてトンでもない・・・と。使徒パウロの手紙にそれ実は書いているのですね。死んだ人(イエスのこと)の復活が事実でないのにそれを信じているのであれば、我々はこんな哀れな(阿呆な、馬鹿な)人間もいるまいと!
◆メメント・モリ(常に死を思え)、で これは仏教でもキリスト教でも同じでしょうが、僕は死んでから、草履を履いて六文銭の入った頭陀袋を下げて、杖ついて、△頭巾を頭に縛って、浄土(キリスト教では天国)へ入れるように巡業の旅をし続けるのは、はっきり嫌なのです。 イエスの十字架の右に掛けられて天国への保証をもらった罪人のようには行かないだろうけれど、天国への保証が欲しいのです。 誰も肉体が亡くなると霊魂までは同時に消滅するなどとは決して思っていないのにも拘わらず、どうなるだろうと人は考えないようにつくられているのだろうなぁ。(あまりに遠く離れてしまったから)
◆ですから、イエスがキリスト教をつくった訳ではないのだが、人間は弱い者だから組織の維持のために規則や、瘡蓋のようにあれやこれやと総括してしまう。それが出来てしまうと、その組織維持の為に今度は、言わなければいけないことも言わなくなる。自分の言葉で宣教しなくなる。知られた一般論で「後は神の導きを・・・」となる訳です。伝道はしませんという牧師も出てくる始末だ、なんだオイ! フォーサイスは「教会形成には神学が必要だ」と言い、今年、宗教改革500年、M.ルターは「神学には”試練が必要だ”」と書いているのをどう思ってるんだ。さて・・・
◆故、三笠宮崇仁親王は古代オリエントが専門でしたから、これはユダヤ人どうのこうのという以前のもっと古い時代、古イスラエルの歴史にも詳しかったと思います。それで第二次の戦争には反対していたこともあったようですが、冒頭の疑問は、紀元前1000年頃にダビデという王様が立てられてそれ以降、その子ソロモンの栄華と言われた知恵を求めたソロモン王が出たのですが、あにはからんや繁栄を謳歌すれば神の心から離れるという道理からは免れず、国は分裂、12部族の一つの国が北イスラエルと南ユダに分かれてしまう。それで北イスラエルの10部族はどこに行ったのか(アーサー・ケストラーの本もあったなぁ)・・・というのがキモで、それが、この国に渡って来ていたというのが、前に書いたお二人の(もっと他の方の調査もありますが・・・)意見なのです。カスピ海南沿岸にい秦氏の移動などは本にもなっています。映画の撮影の知られる京都の太秦(うずまさ)というのはその人達の来て最初に住んだところなのだろうと・・・。エフライムの系図は天皇の家系図に似ていたとか、ミカドというのは、12部族にあったガド族から(「ミ」というのはヘブル語で「~から」というらしい)という話もあり、本当??
◆まちがっても学問的にどうのこうのは表には出てきませんけれど。それにしても正倉院展示会が開かれていることの紹介がニュースで流れていましたが、ペルシャの貢ぎ物などどうしてあの時代、この国まで来ていたのだろうなぁ・・・やはりエフライムの人々はこの国に来ていたのかなぁ、古代にはいずれ優秀な方々がこの国の基礎を考えていたのだろうなぁなどと この寒い日につらつらと考えたのでした。 ・・・・


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