marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(312回目)脱線: 入り口にたたずむ多くの人の思い Ⅱ

2017-04-05 23:55:43 | キリスト教神学
 4月から職場が変わり肉体労働も少し加わり、老齢化が進む中で自分の肉体の体調を考えながら仕事がまだできることに感謝しなくてはいけません。肉体というのは過負荷にならないうちは、動かした方が老化防止になってよいのです。
◆朝、寒い中でも玄関に新聞を取りに行くと、高齢者の方が犬を連れて散歩しているのを見かけます。会社に行く途中でも明らかに健康維持の為に散歩している方がおられるのを目にすることが多くなりました。”早起きは三文の得”と言われておりましたが、時間的にフリーの時間が多くなった方々も積極的に朝早くから自分の時間の意味、肉体がこの空間の中に今あり維持することに時間を用いていることに敬服します。ただ、死を待つ人々にならない為に・・・。
◆キリスト者は、肉体が動けなくなっても祈り(の行為)があると言われます。旧約聖書の詩篇などは、元気な人にはまったくもってマイナーな内容のように読めます。無論、その記者は当時の時代背景の中での神へのよび求めの願いであり、感謝であり、また讃美です。詩篇の内容は現代から未来へつなぐ内容として過去のものとならない内容で現代の僕らにも語りかけています。肉体が消滅しつつある中における赤い糸のようなものに感じられてきます。

さて、雑ごとの続きです。・・・
◆M・ルターさんの著作に「奴隷的意志」というのがあるのです。てっとりばやく書けば、ルターの「自由意志論」も、罪という事も、さらには、「すべてのしがらみから離れて・・・」のその「しがらみ」も、被創造物の人間の業であることなので、すべてにおいてそのこと「人間の意志」についてどうなのか、に関わっているということが言えるのではないでしょうか。つまり、自分の言葉でイエスと語るとしても、その語る人間の言動の基となっている考えがどうなのかということです。これは、未信者の方にも、おそらく誰にでも関わる課題です。キリスト教では、罪のことにつて語るわけですから。パウロは、自分の省察めいた事をロマ書の第7章で述べています。それにしても、聖書の先理解の我々にとって、気の遠くなるようなアダムまで遡って罪がどうのこうのと言われてもねぇという思いではないでしょうか。
◆しかし、この罪という事に関し、先理解のまったくない僕ら異邦人にはどのように理解するのがよいのか。そして、神の像(imago Dei)創造されし人間は自分もそうであるし、地球上には多くの人間が存在して生を営んでいるわけであるから・・・。
◆そこで、突然ですが、僕が今考えているこの「原罪」の定義ごとについては、ルターのあとのカルヴァンさんの文章がぴったりしています。
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 原罪とは、霊魂の全部に浸透せる、我々の性質の遺伝的壊敗または腐敗であって、第一に我々を神の怒を蒙るべきものとし、次いでまた聖書が肉の行為(ガラテヤ書5の19)と呼ぶところの行為を、我々のうちに生ぜしめるものと思われる」(「綱要」2篇1章8節)
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 ここには、よく言われる、「神意に不従順」であるとか、「アダムがどうのとか」、さらに「的外れ」とかなどのことは書かれていないのでキリスト教における全般的な定義ではなく限定的なことについてのみ書かれたようだけれど、命ある期間は実際に肉においてのみしかこの地上には存在し得ない自分の有り様を省察して見るための最低限の確認にできうる必須事項が書かれていると僕は思う。・・・ 
  
 
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