marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(264回目)公会議と教会について(M・ルター)

2017-02-15 21:04:09 | 日記
先の回に公会議の事について書きました。今年は宗教改革500年。マルチン・ルターさんが公会議のことについて書いている文書がありますので短く掲載します。先の回に関連しておりますので、初めて読まれる方は映画「沈黙」を見たところの日記から読まれたし。その文書とは表題に載せた「公会議と教会について」です。後の数字はワイマール版ルター全集の巻ページ。詰まるところ、聖書に基づき、その源泉からくみ取ることを第一として、それに付随する公会議の決定や教父の著作などがそれを凌駕して優位に立つようなことがあってはならないしあるべきではないということ。それについては、ルターは、かのアウグスティヌス自身も「三位一体論」の序論でこう述べていると・・・
◆「聖書と同じような具合に、私の著作に従わないでください。以前は信じていなかったことを聖書の中に見いだすならば、疑うことなくこれを信じてください。しかし、私の著作においてなら、以前は確信をもっていなかったことについては、私によってそれが確かなことだと証明されない限り、確かなものとしないでください」と。(『公会議と教会について』50・524)
◆私たち異邦人は私たちの父祖の著作を、聖書と同じくらい高く評価しなで、少し低く評価すべきである。〔・・・・・・〕また、どの公会議にしても教父にしても、そこでキリスト教の教え全体を見出し、学ぶことができるということはない。例えば、ニケアの公会議は・・・、コンスタンチノポリス公会議は・・・、エペソ公会議は・・・、これはまだ、キリスト教信仰の教えの全体ではない。聖キプリアヌスは・・・、聖ヒラリウスは・・・、聖ヒエロニムスは・・・、聖クリソストムスは・・・、聖アンブロシウスは・・・、聖アウグスティヌスは・・・
◆要するに、教父たちや公会議の双方をみなひとまとめにするがよい。どんなに永遠に集めつづけてもそれでも、その信仰から、キリスト教信仰の教えの全体を集めることはできない。聖書が教会を作り、支えなかったとすれば、教会は公会議があり、教父がいても、それでは長く存続しなかったことであろう。証拠として〔次のことを言わせて欲しい〕。
教父たちや公会議は、それが教え、取り上げていることをどこから得たのか。彼らはそれをその当時初めて見つけたとか、あるいは聖霊からいつも新しいことが彼らに注ぎこまれたとか、あなたは考えているのか。それなら教会は、そのような公会議や教父たち以前には何によって存立していたのか。公会議や教父たちが現れる以前にはキリスト者はいなかったのか。。(『公会議と教会について』50・544-547)・・・

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