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世界のベストセラーを読む(295回目)脱線:「伝道」東神大パンフレット41 近藤勝彦 著を読む

2017-03-20 20:12:28 | キリスト教神学
今日は一日、風がつめたかったのですが良い天気でした。午前、掲題の冊子を見つけ読み込んでしまいました。(近藤先生のは諸々あるがこれは読んでなかったので・・・)。そのため、午後から諸々、予定をこなすのにハードな一日でした。それでは読んで改めて教えられたこと。
◆この冊子は、東京神学大学から出版されている一連のパンフレットシリーズの現在の最終版41冊目に当たります。歴代の先生方が書かれている。内容はまさに神髄です。それで、僕が今まで気がつかず改めて深く気付かされたことがありましたのでその箇所を書きます。
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◆キリストのバプテスマ(洗礼)
 洗礼とは何かを理解するためには、イエス・キリスト御自信が洗礼を受けたことと、御自分に迫ってくる十字架をバプテスマと呼んだことを理解する必要があるでしょう。初代教会の中で「キリストの名による洗礼」がいつ始まったかという問題は興味深い問題です。マタイによる福音書28章19節によれば「復活した主イエス」によって、「洗礼を授けよ」と命じられています。しかし、そのときから洗礼が始まったかというと、そうではないようです。それ以前に主イエス御自身が「バプテスマのヨハネ」から洗礼を受けていますし、主の弟子たちが洗礼を授けていたとも記されているからです。(ヨハ4:2)
 バプテスマのヨハネの洗礼は「悔い改めの洗礼」でした。それは他の清めのための水洗いとは異なり、一度きりの洗礼でしたが、聖霊の注ぎとは結びついていませんでした。その点でイエス・キリストの名による洗礼と異なっています。ただ、罪ある者が悔い改めの洗礼を受けたのです。主イエスは罪なくてその洗礼を受けました。それは主イエスが人々の罪の状態に連なり、人々の罪の現実を御自分のこととして受け止めたことを意味します。罪のない御子なる神が、罪の人々に連なって悔い改めの洗礼を受けたわけで、そのことは罪の贖いのための十字架に向かっていったことでもありました。そのうえで、主イエスは御自分の十字架のことをバプテスマ(洗礼)と呼びました(マル10:39、ルカ12:50)
 イエスの名による洗礼を受けることは、この主の十字架の中に入れられ、キリストの十字架の死と結ばれることを意味します。このことが、洗礼は唯一一度だけ受けるものという性格を決定しています。キリスト御自信の十字架がただ一度で、決定的な仕方によって、最後の審判を代わって受けたものだったからです。キリストの十字架が終末論的な意味を持って、世の終わりまで効力を持つように、それにあずかる私たちの洗礼も最後の審判に備える一度だけの終末論的な出来事としてその人の全生涯を包括します。(p61~63)
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◆アンダーラインは、いつもながら僕であるが、この箇所・・・。洗礼が、常に新生の為の了解ごとの意味合としか僕はとらえていなかったが、イエスが同時に御自信が洗礼を受けることによって(我々からいえば新生の為の主イエスを信ずる儀式のようにのみ考えていたが)、同時にそれは、イエス御自信は、御自信の十字架の受難についてもバプテスマといわれてさらに深い意味で永遠の命への新生を意味していたことに新たな驚きを持って開眼させられたことである。
 その洗礼は、地上のキリスト者としての新生とともに、イエスが御自分の受難をもバプテスマ(洗礼)といわれているが故に、それは同時に永遠の命への復活をも意味する深い二重の意味合いが含まれていると理解されたことである。・・・ Ω 
 
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