marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(455回目)若い人よ、死にたいと思ったらチャンスと思え!

2017-11-12 08:50:55 | 日記
 僕の時代には、その自分の位置、自分という者が自分の言葉で捉えられない、尻の落ち着き何処のない、しかも全ての不条理な事に答えの得られないもやもやの期間、アイデンテティーを暗中模索の時代、モラトリアムということばもあったが・・・・。

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 若い人よ。死にたいと思ったらチャンスと思え、今の自分に命を与えている神に抗議せよ!

 不完全な人に依存しては決していけない。

 神に抗議せよ、格闘せよ!

 答えは必ず見つかる。

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世界のベストセラーを読む(454回目)悪魔は人殺しである・・・

2017-11-12 00:10:12 | 日記
 信じられないような人殺しの話。これは聖書によれば、悪魔、つまり天地創造に由来する、ヘブル語のサタンは反対する、妨害するという意味があると。ギリシャ語に訳されディアボロス(敵対者)となって英語ではデヴィル(悪魔)へと変化したそうだ。聖書を読むと、天地創造時の筆頭の神の使い、霊の持ち主。それが、最高の傑作人間を神が創造してから、甚だしく嫉妬し、自らも神同等に振る舞い、人間に罪を犯させ神の戒めの食べてはいけない(善悪を知る木の)実を食べさせ、故に天上界から地上に落とされ(堕天使)、もう二度と天上界には戻れない悪霊としてうろつきまわり、あわよくば、創造の業を妨害、究極は全ての生命、特に最高傑作の人の生命の破壊を常に企む者となった。
◆悪魔も地上に降りては、霊により、実際の敵対は人を手段として用いるしかない。イエスは神の真実を地上人類に宣教のための弟子を大変な困難の中にも養成しつつあるが、悪魔も地上の手下(弟子)を増殖したいと願っている。悪霊が乗り移ってしまうから、その当時者は分からない、まったく肉の快楽としてそのことをなす。神の創造せし成功傑作の破壊、消滅である。そのことに対する快楽である。魂を売り渡すとはこのこと。人は霊を持つ。悪魔は神に近い天使で堕天使となってから悪霊となって、飲むべき者を捜してうろつきまわると書かれている。命を受けた僕らは、その時点から思い通りにならない肉体をまとわりつかされ、霊を与えられて良く生きんとしてもがいている。「イエスよ近づかないでくれ、あなたは神の聖者である」と喚いた墓場に縛られていた狂人のごとく。僕らは、正しい霊が示されない限り、死にたいと願ったり、人生の意味を見失う時を誰でもが通過するのである。
◆どうして、対等な地位をめざそうとする女性が・・・被害にあうのか、そう、蛇の誘惑に載ったのは女であったから、そして、女はそのことを自覚しない限り、真の対等な地位など実はこの地上では得られないのかもしれない。アダムは、蛇の誘惑に負け、善悪の木の実を食べさせられたのだが、神が自分に助け手として与えてくれたとして、女に対し自分が神の戒めを破らせられたことを叱責しなかったのだ。全ては、ここにあると言えるのかもしれないなどと思ったりする。
◆肉体と霊、そしてその一体としての人の魂を考えて欲しい。見えない霊と見える肉体は、連続の中に有り、死んでもその世界は連続している。神の与える霊に繋がる者は、死んでも霊として生きる。復活した体として生きる。神の霊に繋がらない者は、旅を続け次の世界へと準備が整うまで、転生を行う者もいるかもしれない。地上で行われている霊の法則を話して分からなければ、天上界のことを話してどうして分かるだろうかと、イスラエルの教師ニコデモはイエスに叱責を受けた。事実そうなのである。謝って殺した者は逃れの道もあるが、そうでないものは、「汝殺すなかれ」と十戒にあるごとく、それはそのようになっている法則なのである。律法の一点一画も廃れることがないとのイエスの言わんとするところは、霊の法則なのである、心情として捕まえる前にそのようになっているということなのである。
◆仏教では、何回忌などとこの地上での霊の旅巡業を何年も繰り返すのかもしれない。しかし、「この方(イエス)によらなければ救いはない」と書かれた、彼を信ずる者の霊のありようは、何ら我田引水、傲慢などというものでは全くなく事実その通りなのである。全く、知識もなくイエスの十字架と共につけられた罪人は、その時点で自らを認め、イエスの存在を認め、どうぞ、「わたしを覚えたください」と願っただけのその男が、イエスから「こよい、わたしと共にパラダイスにいる」と言われたことを僕らは心して覚えなければいけないのである。霊については、決して不思議なことでも何でも無い。東日本大震災で多くの人が亡くなり、知り合いや親族の死を経験したこの年に僕は、全く霊は事実あるし肉体が消滅しても霊はあることを感じたものである。イエスの語ったことは宗教につきものの曖昧模糊、ぼんやりした心の慰めなどというののを越えて、それは事実なのである。どうか「霊」について、そして真理(事実)について焦点を合わせながら、新約聖書(特にヨハネ伝)そして、移行の手紙を読んで欲しい。
◆キリスト者はまず第一に自分に与えられた人生の宿題として、自分に与えられた課題について戦わねばならない。*******
 「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなた方の敵である悪魔が、ほえたける獅子のように食い尽くすべきものを求めて歩きまわっている。(ペテロの第一の手紙5章8節)」・・・ 続く