marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(353回目)何を情報源としているのか、判断基準は何か

2017-05-24 22:40:58 | 聖書・聖句
 昨日からの続きです。 
◆日本は国家のために宗教を利用しようとしてきた歴史を持つ。西欧のそれは述べてきたとおり宗教が断然にすべてを支配していてそれからの自立の長い格闘があったということでした。
 昨日の先生は1934年戦前生まれ、ちょうど国際連盟脱退通告の次の年、2.26事件の2年前(といっても昨日紹介の本は今から12年前の出版(初版)であってそれほど古いと言うわけでもない。)今回紹介する先生は1947年戦後生まれです。1945年に敗戦を迎えたので、誕生した年によって、これだけ明白な憲法に対する考えが異なるかと考えさせられます。是非ではなく、学者ばかりと言わず、人というものは、時代、伝統、因習、慣習、などによりいかに考えが制限されているのか考えさせられます
◆つまり、その人間のこうだと発言し態度決定をする場合、その個人は何を根本の判断基準としているかということです。「知性は情念の奴隷である」とはヒュームの言葉であることを過去に紹介しました。言葉にするつまり、知性はなかなか言葉にできえない情念を源に発信され、その情念は自分で選択できない、しかも意識もしえない環境からのすべてのしがらみがまとわりついているとすれば、ここでも僕は、自己認識を明確にすることの限界、知識の限界、普遍性を語ることの有限性についてもしっかりまずは、理解しないといけないのではないかと思わされるのですね。
◆それで戦後生まれの今回の憲法学者(戦後生まれのこの先生は、樋口陽一です)のそれに関連する記事から・・・要約すると
 17世紀のはじめころ、徳川幕府は切支丹弾圧のため檀家制度を作ったが(お寺は今の市役所のような働きをも行っていたのだが)仏教は「葬式仏教」に変質せしめられていきます。19世紀の明治国家を形作るにあたり大日本帝国憲法の実質的生みの親とも言われる伊藤博文はこのような言葉を紹介していますと。
「そもそも欧州においては憲法政治萌せること千余年・・・、かの地には宗教なるものありて之が基軸をなしてきた。仏教は今や力は無く、幕府の下請け状態、神道も同様に社会の力になるものではないと。」伊藤が出した結論は、「この日本で機軸たるべきものは、ひとり皇室これあるのみ。」・・・
◆それで、日本中を天皇・皇室を機軸にするとしてもそもそもの実質的な権威付けのために国家神道を作ったという訳です。そこでは、伊勢神宮を頂点としてピラミッド式に全国の神社の統廃合が強いて行われたのが国家神道だった。また、日本国憲法に影響を与えたのはこの「国王といえども神と法には従わねばならない」としたイギリス革命のその歴史を知っている、それがアメリカ革命にも影響を与えた伝統をもつ歴史を知っている人々が戦後関与したのだという広い歴史的視野を持った考えを提示されています。
◆今回は舌足らずの内容であったのですが、憲法に対するお二人の学者さんの見解を思うとき、改めて表題のことを考えた。つまり、僕らは、時代をそれぞれは生きて、その中でひとりひとりの見解を持ち、態度決定をしている訳です。その態度決定が大きく異なる方向性に向かうとか、思い込んだら押し通して、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのようになってしまうのはいかがなものだろうかということ。かといって、体制側にあんのんと思考、態度決定を委ねてしまうのはいかがなものだろうかと考えるのである。
◆何を情報源としているのか、判断基準は何か、学者の知識おそるに足らずであるというのが今回の僕の言いたいことでした。
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 わが子よ。わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして 知恵に耳を傾け 英知に心を向けるなら 分別に呼びかけ 英知に向かって声を上げるなら 銀を求めるようにそれを尋ね 宝物を求めるように それを捜すなら あなたは主を畏れることを知り 神を知ることに到達するであろう      (旧約:箴言2章1~5節 新共同訳)・・・Ω