MARCO Company

子ども時代、死者との共同作業、魔術を3つの柱として、そこから見えてくることを綴っていきます。

村上春樹氏の小説とゲーテ色彩論

2016-10-12 08:54:37 | 日記
スイスで知人がくれた『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のドイツ語訳を読んだ。
いろいろと考えているうちに、この小説はゲーテの色彩論で読むことができるのではないかと思えてきた。まだ思考として完結していないけれど、現時点での考えを記しておく。

ぼくにとっては、ドイツ語版で読めたことがよかったと思う。
ドイツでは「シュピーゲル誌ベストセラーNo.1」と銘打ってあるが、確かにぼくのドイツの知り合いの多くがムラカミを読んでいて、高く評価している。しかし、日本語でネットを検索すると、いかにも多様な解釈があって驚かされる。もしかすると、英語やドイツ語では、ここまでの解釈の幅は出てこないのではないか、日本語で読むより理解しやすいのではないか、と思えてくる。

ぼく自身は最終章の直前までは完全に引き込まれ、夢中になって読んだ。だが、最終章で躓いた。あまりにも多くの謎、符合する事象の意味が謎のままに残されている。
主人公は恋人からの電話にも出ないで、ひとり心の中で思考し、納得して物語が終わる。大切な友人のひとりを虐待し、絞殺した真犯人はわからないままだ。それでいいのか、と思う。
混乱した読後感の中で、あれこれ考えて思い当たったのは、やはりこの最終章にすべての答えがあるということだった。
そこにはオウム真理教の地下鉄テロへの言及があり、新宿駅を行き交う無数の人々の描写がある。そして、主人公は自分に罪をなすりつけた女性を理解し許せると思う。その根拠となるのが、最後に出てくる「時間の流れの中でも消え去らないものがある」という言葉だ。
高校時代に友情を交した5人のお互いを信じる能力は、今も失われていないのではないか、と彼は考えて眠りに落ちる。

もう1つのキーワードは「悪霊」である。
主人公がフィンランドまで会いにいくエリは、殺された女性は悪霊を振り払うことができなかったのだという。そして、主人公は悪霊を退けるために、長いことエリを抱きしめる。この悪霊とは何だろうか?

1つの読み方として、ぼくはこの本は「共同体の光と闇」を描いているように思う。その共同体には、主人公が経験した高校時代の5人のようなグループも、家族も、そして国家も含まれる。
悪霊とは、成員を縛り、抑圧する共同体の影の部分なのではないか。それに対して主人公は、最後に、相互に信じる力という「共同体の光の部分」を対置させることで、先に進もうとしたのではないか。

そう考えたとき、この小説はゲーテの色彩論そのものに思えてきた。主人公にとって絶対的な意味を持つシロとクロという2人の女性。その間に立つアオとアカ、そして色彩を持たない多崎つくる。ゲーテの三原色は光と闇の間に発生する。その場合、多崎つくるは実は「黄色」ということになる。なぜ本人が自分には色がないと感じているのか、その理由は黄色の特殊な位置どりにあると思う。ニュートンの色彩論では、三原色は赤と青と緑である。その三色が混ざり合ったとき、色彩は無色の光(白)に還元される。
けれども、ゲーテの場合、色彩が発生するためには、光と闇の両方が必要である。色彩は、闇に触れることで光が引き受ける苦しみなのだ(「色彩は光の行為であり、受苦である」)。

多崎つくるは、いわば光である。光があるから、すべての色彩は発生する。ニュートンの色彩論であれば、すべての色は光の中に含まれる。しかし、ゲーテは色彩が生まれるためには、闇の存在が不可欠だとした。プリズムをのぞき、色が発生する場所を見ると、それはすべて何らかの影と境を接したところである。

また、ゲーテの色彩論では「曇り」が重要である。曇りとは、いわば「闇」の1つの発現型であり、観察者と、彼が観察する光や闇との間に働く。たとえば、夕焼けが赤や橙に見えるのは、夕暮れの暗い空気という曇りを通して、太陽の光を見るからだ。日中の空が青く見えるのは、昼間の明るい空気の曇りを通して、宇宙の暗がりを見るからだ。曇りの中に、赤も青も発生する。
この曇りは「灰色」としても表現されるが、孤独な主人公が学生時代に友情を交わす灰田くんは、まさに闇と光の間に働く存在である。
また、灰田くんが主人公に語って聞かせる物語では、緑川と名乗る人物が、悪魔について、人間が持つ色について、死を引き受けることについて語る。この人物が「闇」の側にいることは明らかだが、彼の名前が持つ「緑」という色は、ニュートンの色彩論においてゲーテ三原色の「黄」に対応する。シュタイナーの「緑は、生命の死せる像である」という言葉も想起させる。

その一方で、多崎つくるの色は、黄色であるよりも、ゲーテのいう「桃色」(Pfirsichblüt)だったかもしれないと思えてくる。桃色は、ニュートンの色彩スペクトラムには存在せず、いわゆる「補色スペクトラム」(白地に黒い縞をプリズムで見ると、上方の黒と白、下方の黒と白の境に発生したスペクトラムが重なり合い、中心に桃色が発生する→)。シュタイナーは、この色は人間自身の色であり、自分が立っているところから片側に赤を、反対側に青を見ているため、通常は自分の向かい側には青と赤の混合色である緑を見るという。けれど、いわば自分自身を想像力で見るならば、そこは桃色なのだ、と。(

灰田が語る物語の中で、緑川という男は、どんな人間にも固有の色があるが、特定の人々は共通した特殊な色を持っていると言う。それが桃色なのかもしれない。
同時に、ぼくはこの小説は日本そのものを描いているのではないかという感覚に捉われている。多崎つくるは、まるで日本という国のように思えるのだ。あるいは、日本人の自己感覚であるかのように。サクラは日本にとって象徴的な花だが、その色の特性はゲーテが「桃色」と呼んだものに近いような気がする。

以上、どこまで当たっているかはわからないが、世界が「村上春樹氏が今度こそノーベル文学賞を取るかどうか」と騒いでいる今の時期に、自分の頭の中に巡った考えをそのまま記しておきたいと思った次第である。
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