気ままに

大船での気ままな生活日誌

広重を子規はどうみたか

2017-06-15 09:59:36 | Weblog

おはようございます。前日、広重の六十余州名所図絵を紹介したばかりですが、ひきつづき、広重の話題でござりまする。子規の”病牀六尺”を読んでいると、日本美術についての論評がよく出てくるが、その中で広重は、19、20(番)と二か所に登場する。さて、子規は広重をどう評価していたか。

19(番)で、”立斎広重は浮世画家中の大家である。その景色画は誰もほかの者の知らぬ処をつかまへて居る”という書き出しで始まる。立斎広重とあるが、歌川広重(1797-1858)は、天保3年(1832) に立齋(いちりゅうさい)と号を改め、立斎ともいっていた。

つづけて、殊(ことに)名所の景色を画くには第一にその実際の感じが現はれ、第二にその景色が多少面白く美術的の画になつて居らねばならぬ。広重は慥(たしか)にこの二カ条に目をつけてかつ成功して居る”と、核心をつく。

そして、具体的に、”彼は遠近法を心得て居た。即ち近いものは大きく見えて、遠いものは小さく見えるといふことを知つて居た。これは誰でも知つて居るやうなことであるが、実際に画の上に現はしたことが広重の如く極端なるものはほかにない”

そして、ぼくも見たことのある、大提灯を前面に大きく、遠方の本堂を小さく描いた絵や、目の前の熊手の行列は大きく、大鷲神社は遥かの向ふに小さく描いた絵を例に出しながら、こうゆう極端な遠近大小の表し方はこれまでの日本画にはなかったことだと絶賛する。

浅草金龍山(広重):これは、広重、晩年の名作、”名所江戸百景”の一つで、子規もこれを見ているはず。雷門から提灯越しに仁王門(宝蔵門)と五重塔をみているという説明が多いが、それでは五重塔の位置が違う。本堂内側から提灯(志ん橋)越しに仁王門と五重の塔を見ているのではないか。

しかし、子規は、広重にこう苦言も呈している。とにかく彼は慥(たしか)に尊ぶべき画才を持ちながら、全く浮世絵を脱してしまふことが出来なかつたのは甚だ遺憾である。浮世絵を脱しないといふことはその筆に俗気の存して居るのをいふのである。今でこそ、世界に冠たる浮世絵であるけれど、当時の浮世絵の立ち位置がわかるというもの。

20(番)にも、広重の絵手本ともいうべき”草筆画譜”について触れている。その中で、蕙斎(けいさい)の蕙斎略画式の斬新なのには及ばないが、しかし一体によく出来て居る、と述べている。蕙斎とは、鍬形蕙斎のことで、現在では北尾政美(1764-1824)の名の方が知られている。
 
蕙斎は、江戸時代では”北斎嫌いの蕙斎好き”という言葉が出来るほどの人気絵師だったようだ。蕙斎の”略画式”は、同時代の北斎(1760-1849)の北斎漫画などに真似され、蕙斎は苦々しく思っていたらしい。現在では圧倒的に北斎漫画の評価が高いが、先駆者を評価する傾向のある子規は、”北斎嫌いの蕙斎好き”だったのかもしれない。そういえば、病牀六尺には北斎は一度も登場していない。

 


北斎好きのぼくとしては、”あっかんべえ”も入っている北斎漫画の百面相で対抗したい(笑)。

百面相・八艘跳 (北斎漫画)

 

それでは、みなさん、今日も一日、お元気で!

 

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