正月3日。前日は午前中、素晴らしい富士山を観ることができましたので、今日は是非、夕映えの富士山を観ようと、江ノ島に出掛けました。こんなに晴れていれば、間違いないと思っていたのですが、途中の、モノレール富士見町駅あたりで、富士山がみえないことがわかってしまったのです。これでは、しょうがないと、引き返そうと思ったのですが、そうだ、夕日なら、いいだろう、そういえば、まだ今年は夕日をみていない、とすると、”初夕日”だ、夕日なら、久し振りに、ボクの好きなコッホ博士の(滞在)記念碑の建っている稲村ヶ崎へ、と急遽変更して江ノ島駅から江ノ電に乗り換え、稲村ヶ崎へ向かったのでした。
まだ日は高かったので、ゆくりと稲村ヶ崎の公園内を散歩。階段を昇りつめた展望地にある、コッホさんにも半年ぶりに再会。コッホ夫妻は近くの雲仙山(その先端部が稲村ヶ崎になる)の頂上からの江ノ島、富士山を見渡せる景観をことのほか好まれ、専用のベンチまでつくったそうです。はじめ記念碑は雲仙山頂に建てられたのでしたが、荒れ果てて、昭和58年(1983年)、結核菌発見100年記念を期に、ここの公園内に移されたのです。
もうカメラマンが何人も陣取っていました。もちろん、コッホ夫妻も楽しまれた、相模湾に沈む夕日を待っているのです。ボクも、前回はここから夕映えを楽しんだのですが、今日は浜辺へ降りて、そこから”初夕日”と思っていました。
ボクは浜辺に降り、夕日を待ちました。左には稲村ヶ崎の先端の岩肌と砂浜が。唱歌「かまくら」の、♪七里ヶ浜の磯ずたい 稲村ヶ崎 名将の剣投ぜじ 古戦場♪を思い出します。新田義貞軍は、ここを抜けて、由比ヶ浜に向かったのです。

日が落ちてきました。ひかりの帯が海面にのびて、砂浜にもひかりが。

そして、その頃には夕日見物の人たちがいっぱい。

そして、夕日が。

夕日をみる若いふたり。このあと、ふたりはさらに接近していました(汗)。

丘に戻って、逗子開成中学生のボート遭難事件のブロンズ像と夕日を。小学生の弟をしっかり抱きしめて、必死に助けを求めている中学生の姿です。 ”真白き富士の嶺 緑の江ノ島 仰ぎ見るも 今は涙” 明治43年(1910)1月23日のことでした。

今日もお日様は、人の世の、嬉しいこと、悲しいこと、何もかもいっさいをやさしく、つつみ、ゆっくりと、ゆっくりと、大きな海に沈んでゆきました。
まだ日は高かったので、ゆくりと稲村ヶ崎の公園内を散歩。階段を昇りつめた展望地にある、コッホさんにも半年ぶりに再会。コッホ夫妻は近くの雲仙山(その先端部が稲村ヶ崎になる)の頂上からの江ノ島、富士山を見渡せる景観をことのほか好まれ、専用のベンチまでつくったそうです。はじめ記念碑は雲仙山頂に建てられたのでしたが、荒れ果てて、昭和58年(1983年)、結核菌発見100年記念を期に、ここの公園内に移されたのです。
もうカメラマンが何人も陣取っていました。もちろん、コッホ夫妻も楽しまれた、相模湾に沈む夕日を待っているのです。ボクも、前回はここから夕映えを楽しんだのですが、今日は浜辺へ降りて、そこから”初夕日”と思っていました。
ボクは浜辺に降り、夕日を待ちました。左には稲村ヶ崎の先端の岩肌と砂浜が。唱歌「かまくら」の、♪七里ヶ浜の磯ずたい 稲村ヶ崎 名将の剣投ぜじ 古戦場♪を思い出します。新田義貞軍は、ここを抜けて、由比ヶ浜に向かったのです。

日が落ちてきました。ひかりの帯が海面にのびて、砂浜にもひかりが。

そして、その頃には夕日見物の人たちがいっぱい。

そして、夕日が。

夕日をみる若いふたり。このあと、ふたりはさらに接近していました(汗)。

丘に戻って、逗子開成中学生のボート遭難事件のブロンズ像と夕日を。小学生の弟をしっかり抱きしめて、必死に助けを求めている中学生の姿です。 ”真白き富士の嶺 緑の江ノ島 仰ぎ見るも 今は涙” 明治43年(1910)1月23日のことでした。

今日もお日様は、人の世の、嬉しいこと、悲しいこと、何もかもいっさいをやさしく、つつみ、ゆっくりと、ゆっくりと、大きな海に沈んでゆきました。










