
稲村ヶ崎の鎌倉海浜公園の登りつめたところにコッホ博士の記念碑が建っています。今日はこれについて紹介したいと思います。タイトルは、「海辺のカフカ」に似せて、「海辺のコッホ」にしてみました。ついでに、文体も村上春樹風にしてみました(笑)。登場人物は、「海辺のカフカ」と同じ、ボクと図書館の大島さんと佐伯さんです。
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2006年12月28日、ボクは稲村ヶ崎の海浜公園にいる。江ノ島と冨士を浮かべた七里ヶ浜の海は前日の大雨で土色になっている。そのとき、もうひとりのボク、グラスと呼ばれる少年(原作ではカラスと呼ばれる少年)がささやく。「君、昨日の大雨で成就院の紫陽花がダメになる」と。その予言が当っていたことを、一昨日の紫陽花見物で知り、さすが予言者だとボクは感心した。そして、ボクは石段を登り、稲村ヶ崎の突端まで来た。そこに、何ともいえない存在感を示す石碑があった。コッホの記念碑であった。コッホの魂が乗り移ったような佇まいであった。
なぜ、この場所にあの偉大な細菌学者ロベルト・コッホの碑があるのだろう、ボクは不思議に思い、その説明文を読み始めた。そのときグラスと呼ばれる少年がささやく。「そんなところには、たいしたことは書いていない、ガマくら図書館の資料室に一級文献があるはずだ」と予言する。そして、「もうお腹がすいた、お昼はどのグラスでいくか、今日はワイングラスでなくて、ビールグラスでどうか」と聞いてくる。ボクはうなずく。近くの七里ヶ浜の「珊瑚礁」で、シーフードサラダとビーフカレーを食べる予定にしていたので、ビールが合うと思ったからだ。
そのことがあってから、すぐお正月を迎え、そして、梅が咲き、河津桜が満開になり、ソメイヨシノが咲き始めて、ボクは死ぬほど忙しくなって、すっかり、そのことを忘れていた。その上、ボクは、遊び過ぎの疲労が原因で帯状疱疹に罹り、しばらく歩けなくなってしまっていたのだった。
先日、大船ルミネでかつカレーを食べているとき、もう一人のボクがささやいた。「カレーで思い出した、そろそろあの件を調べよう」ボクはうなずいた。その図書館の名前はガマ蔵図書館といい、館長の大島さんは筑波山の四六のガマの口上で財をなしこの私設図書館をつくった。
ボクはその日の午後、その図書館を訪ねた。門前には大きな四六のガマの瀬戸物の置物が見張り番をしていた。お客はボクのほかに誰もいなかった。窓口にいた佐伯さん(名札をつけていたので分ったのだ)に、尋ねた。コッホの・・と言いかけたとたん、佐伯さんは、分ったと言って、書棚の方に姿を消した。そして一冊の本をボクの前にどすんと置いた。その本は小林秀雄の「ゴッホの手紙」であった。そ、そうか、ボクは小林秀雄が好きでね、早とちりしてしまったねと言いながら、うしろを振り向き、50代半ばのスリムな、明月院の紫陽花のような水色のワンピースがよく似合う美人司書の佐伯さんに声をかけた。
佐伯さんはにっこり笑いながら立ち上がり、ボクがここに来るのを前もって知っていたかのように、手際よく二つの史料を取り出してきてくれた。そして関係のページに付箋までつけてくれていた。
そこにはコッホ博士の来歴や鎌倉に滞在した理由などが詳しく記されていた。結核菌やコレラ菌を発見し、1905年にノーベル賞を受賞し、1908年(明治41年)、彼が65歳になったとき、二度目の妻を伴い、世界漫遊の旅に出た。そのとき、弟子の北里柴三郎が招待し、日本に2ヶ月ほど滞在したのであった。
夫妻はとくに鎌倉を気に入られ、一ヶ月ほど由比ヶ浜の海浜ホテルに宿泊した。奇遇にもこのホテルのコック長がドイツ人で、かってコッホがアフリカ旅行したときの船のボーイ長であり、アフリカ上陸後マラリヤに罹り、コッホの治療を受けたということであった。海浜ホテルは今はなくなってしまったが、瀟洒な洋式ホテルで明治19年に創立されたという。
夫妻は近くの雲仙山(その先端部が稲村ヶ崎になる)の頂上からの江ノ島、富士山を見渡せるこの景観をことのほか好まれ、専用のベンチまでつくった。はじめ記念碑はこの雲仙山頂に建てられたが、荒れ果てて、昭和58年(1983年)の結核菌発見100年記念を期に、ここの公園内に移された。
コッホ博士は日本を離れ、2年後にその生涯を閉じるが、鎌倉で奥さんとご一緒にすごされた一ヶ月が、どれほど、心穏やかで、のびやかな日々であったか想像にかたくない。
ボクは大島さんと佐伯さんにお礼を言って、図書館を出た。そして、鎌倉駅から江ノ電に乗って、稲村ヶ崎駅で降りた。そして、稲村ヶ崎のコッホの碑の前に立った。その日は夕焼けがとてもきれいで、七里ヶ浜の海の向こうの夕映えに浮かぶ富士山もことのほか美しかった。ボクはこの景色に酔いしれながら、学生時代からのあこがれの人、コッホ博士が晩年の一時期を、ボクの晩年と同じく、この鎌倉の地ですごされたということが、何故だかとても嬉しく感じていた。
グラスと呼ばれる少年が、「今日はコッホ博士のドイツビールと北里柴三郎博士の熊本名酒、香露だね、ビール用と冷酒用のグラスを用意するよ、いいかね」とささやいた。ボクは大きくうなずいた。
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参考資料
大仏二郎編 素顔の鎌倉
細菌学雑誌特別号(明治41年6月)
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2006年12月28日、ボクは稲村ヶ崎の海浜公園にいる。江ノ島と冨士を浮かべた七里ヶ浜の海は前日の大雨で土色になっている。そのとき、もうひとりのボク、グラスと呼ばれる少年(原作ではカラスと呼ばれる少年)がささやく。「君、昨日の大雨で成就院の紫陽花がダメになる」と。その予言が当っていたことを、一昨日の紫陽花見物で知り、さすが予言者だとボクは感心した。そして、ボクは石段を登り、稲村ヶ崎の突端まで来た。そこに、何ともいえない存在感を示す石碑があった。コッホの記念碑であった。コッホの魂が乗り移ったような佇まいであった。
なぜ、この場所にあの偉大な細菌学者ロベルト・コッホの碑があるのだろう、ボクは不思議に思い、その説明文を読み始めた。そのときグラスと呼ばれる少年がささやく。「そんなところには、たいしたことは書いていない、ガマくら図書館の資料室に一級文献があるはずだ」と予言する。そして、「もうお腹がすいた、お昼はどのグラスでいくか、今日はワイングラスでなくて、ビールグラスでどうか」と聞いてくる。ボクはうなずく。近くの七里ヶ浜の「珊瑚礁」で、シーフードサラダとビーフカレーを食べる予定にしていたので、ビールが合うと思ったからだ。
そのことがあってから、すぐお正月を迎え、そして、梅が咲き、河津桜が満開になり、ソメイヨシノが咲き始めて、ボクは死ぬほど忙しくなって、すっかり、そのことを忘れていた。その上、ボクは、遊び過ぎの疲労が原因で帯状疱疹に罹り、しばらく歩けなくなってしまっていたのだった。
先日、大船ルミネでかつカレーを食べているとき、もう一人のボクがささやいた。「カレーで思い出した、そろそろあの件を調べよう」ボクはうなずいた。その図書館の名前はガマ蔵図書館といい、館長の大島さんは筑波山の四六のガマの口上で財をなしこの私設図書館をつくった。
ボクはその日の午後、その図書館を訪ねた。門前には大きな四六のガマの瀬戸物の置物が見張り番をしていた。お客はボクのほかに誰もいなかった。窓口にいた佐伯さん(名札をつけていたので分ったのだ)に、尋ねた。コッホの・・と言いかけたとたん、佐伯さんは、分ったと言って、書棚の方に姿を消した。そして一冊の本をボクの前にどすんと置いた。その本は小林秀雄の「ゴッホの手紙」であった。そ、そうか、ボクは小林秀雄が好きでね、早とちりしてしまったねと言いながら、うしろを振り向き、50代半ばのスリムな、明月院の紫陽花のような水色のワンピースがよく似合う美人司書の佐伯さんに声をかけた。
佐伯さんはにっこり笑いながら立ち上がり、ボクがここに来るのを前もって知っていたかのように、手際よく二つの史料を取り出してきてくれた。そして関係のページに付箋までつけてくれていた。
そこにはコッホ博士の来歴や鎌倉に滞在した理由などが詳しく記されていた。結核菌やコレラ菌を発見し、1905年にノーベル賞を受賞し、1908年(明治41年)、彼が65歳になったとき、二度目の妻を伴い、世界漫遊の旅に出た。そのとき、弟子の北里柴三郎が招待し、日本に2ヶ月ほど滞在したのであった。
夫妻はとくに鎌倉を気に入られ、一ヶ月ほど由比ヶ浜の海浜ホテルに宿泊した。奇遇にもこのホテルのコック長がドイツ人で、かってコッホがアフリカ旅行したときの船のボーイ長であり、アフリカ上陸後マラリヤに罹り、コッホの治療を受けたということであった。海浜ホテルは今はなくなってしまったが、瀟洒な洋式ホテルで明治19年に創立されたという。
夫妻は近くの雲仙山(その先端部が稲村ヶ崎になる)の頂上からの江ノ島、富士山を見渡せるこの景観をことのほか好まれ、専用のベンチまでつくった。はじめ記念碑はこの雲仙山頂に建てられたが、荒れ果てて、昭和58年(1983年)の結核菌発見100年記念を期に、ここの公園内に移された。
コッホ博士は日本を離れ、2年後にその生涯を閉じるが、鎌倉で奥さんとご一緒にすごされた一ヶ月が、どれほど、心穏やかで、のびやかな日々であったか想像にかたくない。
ボクは大島さんと佐伯さんにお礼を言って、図書館を出た。そして、鎌倉駅から江ノ電に乗って、稲村ヶ崎駅で降りた。そして、稲村ヶ崎のコッホの碑の前に立った。その日は夕焼けがとてもきれいで、七里ヶ浜の海の向こうの夕映えに浮かぶ富士山もことのほか美しかった。ボクはこの景色に酔いしれながら、学生時代からのあこがれの人、コッホ博士が晩年の一時期を、ボクの晩年と同じく、この鎌倉の地ですごされたということが、何故だかとても嬉しく感じていた。
グラスと呼ばれる少年が、「今日はコッホ博士のドイツビールと北里柴三郎博士の熊本名酒、香露だね、ビール用と冷酒用のグラスを用意するよ、いいかね」とささやいた。ボクは大きくうなずいた。
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参考資料
大仏二郎編 素顔の鎌倉
細菌学雑誌特別号(明治41年6月)










