高天原への扉

水瓶座の時代を生きるヒント

本当の世界

2014-09-10 16:12:44 | 水瓶座の時代を生きるヒント

私たちは皆、一人の例外もなく、神かわ分かれて来た神の分け御霊です。実相の世界、本当の世界では、一人の例外もなく、皆全宇宙に満ち満ちたる神そのものにして、完全無欠なのです。この世とあの世のすべてを貫きてある完全なる神がさきはえ賜うているのです。それが私たちであるのです。「さきはえる」とは、「幸はえる」、「先生える」、「咲栄える」とも書けますが、本なる神、すべての大本にある神から枝分かれし、幸せというものを益々増やしつづけているのが、この世界の真実の姿であるのです。「この世界」とは、この世とあの世を貫きたる実相の世界、御霊の本当の世界のことです。

そのことを御霊で実感するために、何度も何度も生まれ変わりをしている存在、それが私たちなのです。そのことを知識ではなく、頭ではなく、御霊で実感するところまで行ったとき、私たちは輪廻の軛(くびき)より開放されることとなります。

本当の反省というものは、この真実在の実相を実感するのを阻害しているものが何かを知り、そしてそれを取り除いて行くことなのです。ですから、「自分は光一元でいくから反省は必要ない」とお考えの方もいらっしゃるかも知れませんが、それは片手打ちと申しますか、少し足りないということなのです。

罪・穢れというものは、本来ありません。本当の世界にはないのです。今、あなたが「この世界」と認識されているのは、恐らく、御霊の世界、本当の世界ではないはずなのです。この世は、ありありとあるように感じるし、痛みも感じます。だからこの世というものが実在の世界であるように感じて仕舞うのです。それは仕方のないことなのです。しかし、それは本当の世界ではないのです。あなたの本当の世界は、御霊の世界であるのです。あなたの本当の姿は、煌々(こうこう)と光り輝いている神そのままの姿であるのです。大本なる神よりさきはえ賜うたのがあなたの本当の姿なのです。

罪・穢れというものは、闇より生じます。闇は、心の病みとなり、罪・穢れを生んでいくのです。それは確かです。ただ、罪・穢れを生む闇は、本当の世界にはないのです。あるのは光のみです。あるのは神のみなのです。「本来、罪なし」なのです。

では、如何にして闇が生ずるのか?それは、心の中に光を遮るものがあるからです。どれほど晴れ渡った日であっても、壁があれば、そこに影ができますね。つまり、心の中に人と人を隔てる壁があったり、神と自分の間に壁があったりしていると闇を生じて仕舞うのです。

仏教で自我がいけないとされていますね。我というものは、「我が強い」とか申しますが、自分という枠を持って生きることですね。「他人が苦しい思いをしても自分には関係ない」なんて思って折られる方いらっしゃいますね。そういう方は、自分と他人というのが繋(つな)がっていません。切れています。切り離されたものと感じて折られます。自分という枠の外にいるのが他人だという気持ちがあるわけです。そういった壁や枠があると光が射さない部分が出てきて、自我我欲という罪・穢れが発生するんですね。だから、自我がいけないと言われて来たんですね。

これから様々な苦難困難と見えるものがやって参ります。そんな中にあっても、自分の御霊を信じ、自分の中に壁や枠を作らず生きていきましょう。もし、その中で、たとえ死することになろうとも、私たちは永遠に死滅することのない御霊なのですから、慌てず肉体の死を受け入れて参りましょう。


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