高天原への扉

水瓶座の時代を生きるヒント

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個人主義とスクールカースト

2013-04-29 23:39:19 | 水瓶座の時代を生きるヒント

西洋化を進めてきた日本は、個人主義をうたいながら本当に個人主義になりきれていないように思います。本来、個人主義とは自分という確固とした価値基準でもって生きていくということではないでしょうか。しかし、皆、どれだけお金を持っているか、人よりも地位があるか、或いは、自分は何次元の存在かといった人の評価、外なる評価でもって自らの価値を計って生きておられるのではないでしょうか。それであって、どうして個人主義と言えるのでしょうか。それをもう少し考えて頂きたいと思います。

自分勝手な生き方、自分勝手な権利の主張をもって個人主義と呼びながら、自らの評価は人からの評価でもって行い、日々、上か下かと気にして生きている人が多いのではないでしょうか。本当に個人主義をうたうならば、自らの評価も自らでもって行うべきではないのでしょうか。自らの御霊に従って、自らの良心に従って自らを評価するべきではないのでしょうか。

スクールカーストという言葉を皆さまは御存知でしょうか。高校などが特徴的なようですが、学内格差あるいは学級階層と言えば宜しいでしょうか。子供たちは、互いに格付けをしているのです。酷いところでは、暗黙の階級社会のようになっていることもあるようです。自分に対する格付けでもって学生生活を送っているのです。驚くことに、スクールカースト指数テストなるサイトもある程です。そして最近では、スクールカーストというものを題材にした映画やドラマが増えてきました。

何ゆえにスクールカーストなるものが生まれて来たとお考えになられますか。それらは大人たちの上か下か、勝ち組か負け組みかといった世界観が子供たちの世界にも投影されているだけなのだと申し上げれば、皆さまはどのように思われるでしょうか。

子供は親の背中を見て育つと言います。親たちの考え方を見て、その考え方を良いものとして身に着けて行くのです。その結果が、スクールカーストというものであると言えるでありましょう。スクールカーストによって、精神的ないじめというものもありましょう。それは、学校側にのみ責任があると言えるのでしょうか。確かに、今や多くの教師達は、教育者ではなくなりつつあります。果たして、それだけが問題なのでしょうか。親たち自身も、自分の評価というものを外の価値観によって上か下か、勝ち組か負け組みかとやっているのではないのでしょうか。それであって、どうして他に責任の所在を求めることができるでありましょうか。

根本的問題は、多くの人々が自らの価値というものを外なる基準に求めているということに端を発していると言えるのではないでしょうか。自らの評価を外に求めるが故に、皆、何か失敗したら、自分は駄目な人間だと思うようになって仕舞っています。何ゆえに、何度も何度も自分の価値を内に求めよとお伝えしているか、その理由を少しは、御理解頂けたでしょうか。

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