高天原への扉

水瓶座の時代を生きるヒント

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失われつつある大和の精神

2013-01-18 00:27:47 | 水瓶座の時代を生きるヒント

◎人間の思い上がり

地球という大自然の中に生きる私たちは、決して自分たちのみで生きていると思い上がってはならないのです。そして、大自然のあり方から学ばなくてはなりません。

決して他の動物達、牛や馬や犬や猫や鳥達よりも自分たち人間が偉くて価値があると思い上がってはなりません。決して、木や草花が生きていないと思って粗末に扱ってはなりません。決して、他の人よりも自らが価値があると思ってはなりません。

大宇宙の神から見たら地球上のすべてのものは、同じように大切なものたちであるのです。この地球に宿る神の御霊、テラ、ガイアとも呼ばれている地球意識からしたら、すべて同じ可愛い我が子達であるのです。ですから、決して思い上がってはなりません。

これは、魚や鳥を食べてはいけないと言っているのではありません。極端な自然愛護を謳(うた)っているのではありません。自然と調和せよと申し上げているのです。

魚や鶏などは、人間の食用として創られているがために、苦しむことなく死を迎えることができます。しかし、牛や馬などは、食用としては創られていないがために、屠殺(とさつ)される際は大変な恐怖と苦しみを感じているのです。そのため、食する時に感謝の念で和らげたり熱を加えたりしなくては、その恐怖の念(おも)いを吸収した血によって食あたりになったりするのです。食あたりになるということは、これも自然から逸脱(いつだつ)したが故の自壊作用なのです。

牛などは乳を人間に提供したり、田畑を耕したり荷物を運ぶといった動力を人間に供給し、人間がその世話をするという中に調和があります。馬は人の移動手段として人と調和しています。遊牧民達の姿に馬との調和を知って頂きたいと思います。

近年、人間達のために一頭一頭治療できるにも関わらず多数の牛が殺処分されたことがありました。これは人間達の社会を守るためだけに、同じ地球の仲間達を虐殺したということであり、思い上がり以外の何者でもありません。これは大自然の調和から逸脱した例でありましょう。調和とは、生かし合い睦(むつ)み合うということだからです。


◎日本の使命

日本という国は、神々の住んでいた伝説の島として語り継がれていくでありましょう。日本という国の使命は、新しい文明が起きてくるときの基礎として創られてきました。それは、モデルルーム、モデルハウス、あるいは自動車で言えばコンセプトカーのような、そのような試験的な面もありました。

かつて、トマス・モアが書いたユートピアという島の話がありますが、そのユートピア島を具現化した島、それが日の本の国であったと言えましょう。

本来、大和の精神を全世界に広げ、広げると言っても布教という形ではなく、世界の人々を感化して行き、日本の人々の生き方、その精神性によって世界の人々があのような心豊かな生活を自分たちもしたいと自然と思えるように導く予定でありました。

決して、日本を中心に説かれた統合的な教えを持った一宗教を布教することによって世界を一つにまとめようとしたのではないのです。

日本の調和と礼節ある生き方に感銘を受けた世界中の人々が、宗教間の争いを見直し、世界中の人々が手を取り合い調和ある世の中を目指していくというのが、日本の使命であったのです。


◎失われつつある大和の精神

しかし、日の本の国民(くにたみ)は、敗戦を期に大和の精神を捨ててしまいました。敗戦というものの影響がこれ程までとは、予想外であったと言えましょう。

人々は、あの世があり、永遠に生まれかわって行くものであると信じることをとても恥ずかしいことである、時代遅れの考え方であると自ら自身を否定してきてしまいました。

かつての日の本の国には、人間が輪廻転生しているということを信じない人は、ほとんどいなかったのです。それが今は、自らを否定しておられる。「私の愛してきた国民(くにたみ)がこれ程まで嘆かわしい姿になろうとは・・・」と天照様は非常に悲しい思いでいっぱいでおられます。

かつての男性達は力強く、潔(いさぎよ)く自らの責任というものをとっておられました。それが徳ある姿であったからです。しかし、今はどうでしょう。皆、如何(いか)にして責任をとらないですますかを考え、うまく責任を逃れる人が有能であるとされ、その方法を知ることを処世術と呼んでおられる。そこには、かつての潔い男性達の姿はなくなってしまいました。

かつての女性達は、慎(つつ)ましやかに夫にかしずき、陰(かげ)となり日向(ひなた)となり夫を支え子供たちを立派に育ててきたのです。その美しい精神性というものがキラキラと輝いていたのです。

しかし、今は、自らの権利を主張する女性ばかりになってしまわれました。女性の開放という名の下にとても自分勝手になってしまわれました。結婚をするにも「この方は、私を幸せにしてくれるかしら」と自分を中心にして相手を見ておられます。そして、結婚してからも、「私は誰々と結婚したのであって、何々家と結婚したのではない」とおっしゃる方もいます。また、結婚をし子を産み母となった後も、女でありたいと願い、女性として扱ってくれる男性が現れたときに、ふらふらとついて行く女性も増えてきているようです。

かつての日の本の女性は、一旦嫁(とつ)いだらそこの家の者となり、たとえ自分の生家(せいか)が敵(かたき)となるようなことがあろうとも、嫁ぎ先の嫁として毅然(きぜん)としていたのです。そこに女性としての凛(りん)とした美しさがあったのです。嫁という字は女偏に家と書きますが、何々家という家、家系というものは、そういった毅然とした女性達によって造られてきたものであるのです。

日の本の女性達よ。あなた達は、母であり妻である中に、その中でひたすらに自らの責務を果たさんとする気高さを忘れてはなりません。それこそが日の本の国の女性の真の美しさであるのです。どうかそういった気高い美しさというものを思い出して頂きたいと思います。

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