2016年06月12日ブログで私は綾瀬川の右岸を歩いた。
風間橋から県道2号に出るまでの歩いた道をこの地図に緑で示す。
そのあたりを明治13年の迅速測図で見る。
現在地図に川筋に沿って描かれた赤い線は見沼区と岩槻区の境界線であるが、日光御成街道が大きく迂回するところを緑で示す。
迅速測図にその部分を緑で示し、現在の境界線を赤で描いてみた。
上流の方は、蛇行していた綾瀬川の旧流路が今も境界線になっていることがわかる。
ウィキペディア綾瀬川には “ 綾瀬川の川筋は、武蔵国内の足立郡と埼玉郡の境界とされていた ” との記述がある。
下流の方を昭和24年の空中写真で見る。
旧流路のように見えるところを青で示す。
迅速測図にその部分と思われるところを青で示す。
迅速測図で綾瀬川の左(西)を見ると深作沼がある。
新編武蔵風土記稿で足立郡南部領深作村の山川を見ると「鶴巻沼」というのがある。
ウィキペディア深作沼には “ 鶴巻沼(つるまきぬま)とも呼ばれた ” と書かれている。
迅速測図には深作沼の下(南)から綾瀬川に合流する川が描かれている。
この川が現在の深作川になったのだと思う。
2016年06月13日ブログで私は深作川に架かる丸堀橋から上流(深作沼方面)を見た。
迅速測図では深作川に架かる橋は二つである。
上の橋の道は今はないが、下の橋の道は日光御成街道だと思う。
現在の地図に下の橋と思われるところを赤丸で示す。
この橋は古簀子橋である。
古簀子橋(ふるすのこはし)から上流を見た2014年8月の写真。
下流を見た写真。
風間橋から県道2号に出るまでの歩いた道をこの地図に緑で示す。
そのあたりを明治13年の迅速測図で見る。
現在地図に川筋に沿って描かれた赤い線は見沼区と岩槻区の境界線であるが、日光御成街道が大きく迂回するところを緑で示す。
迅速測図にその部分を緑で示し、現在の境界線を赤で描いてみた。
上流の方は、蛇行していた綾瀬川の旧流路が今も境界線になっていることがわかる。
ウィキペディア綾瀬川には “ 綾瀬川の川筋は、武蔵国内の足立郡と埼玉郡の境界とされていた ” との記述がある。
下流の方を昭和24年の空中写真で見る。
旧流路のように見えるところを青で示す。
迅速測図にその部分と思われるところを青で示す。
迅速測図で綾瀬川の左(西)を見ると深作沼がある。
新編武蔵風土記稿で足立郡南部領深作村の山川を見ると「鶴巻沼」というのがある。
ウィキペディア深作沼には “ 鶴巻沼(つるまきぬま)とも呼ばれた ” と書かれている。
迅速測図には深作沼の下(南)から綾瀬川に合流する川が描かれている。
この川が現在の深作川になったのだと思う。
2016年06月13日ブログで私は深作川に架かる丸堀橋から上流(深作沼方面)を見た。
迅速測図では深作川に架かる橋は二つである。
上の橋の道は今はないが、下の橋の道は日光御成街道だと思う。
現在の地図に下の橋と思われるところを赤丸で示す。
この橋は古簀子橋である。
古簀子橋(ふるすのこはし)から上流を見た2014年8月の写真。
下流を見た写真。
日々蒸し暑くなってきました。晴れると日差しが強く、日陰の少ない場所では熱中症など十分ご注意下さいませ。
さて、幼少期の遊び場だった綾瀬川と深作川の合流地点ですが、以前も書いたかもしれませんけど、昭和40年代前半は合流する川の色が明確に違いました。泥水の様な綾瀬川に対し、深作川は冬場などは水深が浅い事もあって底まで見えました。それ故、ザリガニなどを目視で採れたわけです。
今では綾瀬川も水質改善が進んでいますが、一方で深作川は同程度の水質にまで落ちています。深作沼が卸売団地へと変わった事も影響しているのでしょうね。
昨日、今日は少し過ごしやすくてほっとしています。
私は綾瀬川も深作川も昔のことはわかりませんが、現在はどちらも特に汚れているようには見えません。
綾瀬川では魚釣りをしている人もいましたので、まあまあの水質ではないでしょうか。
私が子供のころは川で泳いだものですが、今ではとても考えられないですね。
深作川に架かる丸堀橋、下綾橋の名前は、どこに記録がありますでしょうか?
橋に銘板はなく、市の都市計画図にも橋名が書かれていないので、無名橋だと思っていましたが、このような名前があることは何の資料で分かりますか?
深作川に架かる橋の名前はの出所は2016年06月13日ブログに書きましたが、「ウィキペディア」の「深作川」に書かれておりました。