咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

西区にあった法願寺村

2014年12月29日 | 日記
2014年12月19日私は西大宮駅の北を歩いた。歩いた道をこの地図緑で示す。一部に地図に載ってない道もある。
高木地蔵堂跡はここ(赤丸)である。高木地蔵堂跡の法願寺板石塔婆群案内板には “ この地には、つい最近まで地蔵堂が建っており、(中略) 中世には本願寺が所在し、近世に法願寺となり、村名も法願寺村となったようです ” と記述されている。ここは昔「法願寺村」だったようである。

(ウィキペディア)新編武蔵風土記稿差扇領に法願寺村がある。
新編武蔵風土記稿法願寺村の記述。村名は昔法願寺と云う仏刹があったことによるらしい。地蔵堂が昔の法願寺のようである。

明治18年頃の地図でこのあたりを見る。法願寺村はない。
昭和63年大宮市指扇公民館発行『ふるさと指扇』の所載の江戸時代の村々図を見ると法願寺村がある。

ウィキペディア指扇村を見ると、“ 江戸期 - 指扇(差扇)、上宝来、下宝来、峰岸、内野本郷、西新井、中釘、清河寺、指扇領辻、指扇領別所、原、北野貝戸、阿弥陀寺、木ノ下、法眼寺の各村が存在した ” とあり、“
1875年 - 北野貝戸村・阿弥陀寺村・木ノ下村・法眼寺村が合併して高木村となる ” とある。法眼寺村が法願寺村だと思う。法願寺村は明治8年(1875)高木村になった。

明治18年頃の地図と現在の地図を照らして、概ね重なると思われる道を赤で示す。滝沼川を青で示す。
明治18年頃現在

現在地図に赤で囲んだ寺社は明治18年頃のこれら(赤枠)だと思ったのだが、左上に法光寺があるのはどういうことだろうか、わからないのである。
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