咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

江戸時代の地図で見るさいたま市の道

2016年10月15日 | 日記
2016年10月06日ブログで私は日文研サイトデーターベース所蔵地図の弘化元年(1844)東都近郊圖 : 全でさいたま市の川をみた。本日はその地図で道をみてみたい。
見沼新田の上部分を拡大する。下部分を拡大する。
岩槻城、岩付町、大門宿、大宮、浦和宿、与野町は四角で囲まれているが、凡例を見ると宿町とある。
ところどころ道の両側に小さな黒丸が描かれている。凡例を見ると一里塚である。さいたま市域で一里塚があった道は中山道、日光御成道、日光御下道だった。
2016年07月01日ブログの旧中山道一里塚の跡。2015年06月15日ブログの日光御成道一里塚跡案内板。案内板に記述のある「笹久保」は日光御下道だと思う。

さいたま市域にあった六斎市は浦和宿の二七ノ日市、大宮宿の三八ノ日市、与野町の四九ノ日市、大門宿の四九ノ日市、岩付町の一六ノ日市であった。五十ノ日以外は毎日どこかで市が開かれていたということになる。

原市に繋がる道(赤)は中山道にも日光御成道にもある。江戸時代の原市は交通の要衝だったと思われる。

中山道浦和宿から京都に向かって左に分岐する道(赤)は、与野町までは川越道だと思われるが、与野町の先は川越道ではない。
与野町から荒川の羽根倉(渡し)に繋がる道は昔の鎌倉街道(羽根倉道)だと思う。
昭和55年大宮市発行『大宮のむかしといま』に掲載の鎌倉時代の街道この区間(赤)だと思う。
この道沿いに建立された思われる上峯村の庚申塔道標(2016年06月19日ブログ)には「これより 加う志うみち」(甲州道)と刻んであった。

羽根倉(荒川)の手前で右に分岐して荒川上流方面に延びる道を日文研サイトデーターベース所蔵地図の明治39年測圖同45年部分修正測圖大正3年鐵道補入大宮で辿ってみる。
三分割になった。3-13-23-3。一図に縮小する

この道と荒川の間は八貫野と表示されている。
平成25年発行青木義脩著『さいたま市 地名の由来』には鹿狩りの地(八貫野)として “ この八貫野原では、寛政八(1796)年、文化六(1809)年には鹿狩りが行われた。そのころは、八貫野にはイノシシやシカがおびただしく棲んでおり、麦作を食い荒らしたと届けられるほどであった ” と解説されている。
羽根倉道から分岐する交差点(赤丸)は概ね現在の下大久保信号交差点だと思う。昔の道は概ねこのように延びていたと思う。

点線で描かれた道(赤矢印)は川越道だと思う。
先ほどの大宮地図に川越道を緑で示すとこのようになると思う。
中山道浦和宿から分岐した川越道は与野から赤矢印の方向に延びる。
先ほどの大宮地図に川越道を与野から荒川まで赤で示すとこのようになると思う。
明治14年の迅速測図で川越道と荒川が交差するところを見ると「千手堂ノ渡」と表示されている。
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