咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

埼玉県庁表門通りと浦和宿絵図

2016年10月12日 | 日記
埼玉県庁の地について、昭和52年読売新聞社浦和支局編『まちかど新風土記』には埼玉会館に触れたあと、“ 会館の西には谷をはさんで埼玉県庁がある。このあたりは江戸時代には裏山とよばれ、明治三年(1870)に「浦和県庁舎」が建てられたころは前の谷は水田であった。” と記述されている。
明治45年出版『浦和案内』には “ 浦和町の西部鹿島臺に在り ” と記述されている。「鹿島台」の地名は鹿島神社からきていると思う。2016年07月06日ブログ鹿嶋神社遷座記念碑が建っていた。

明治13年の迅速測図を見る。中山道から県庁方面に県庁表門通りと裏門通りが延びている。
大正3年の地図を見る。中山道の右(東)に浦和停車場があり、中山道まで停車場通りが開削されている。
『まちかど新風土記』には、「浦和県庁舎」が建てられたころは前の谷は水田であったと記述されていたが、このあたり(緑)だと思う。真ん中(青)は水路だと思う。

平成5年浦和市発行『図説 浦和のあゆみ』表紙カバーの文化8年(1811)浦和宿絵図でこのあたりを見る。
もちろん、県庁表門通り・裏門通りはないが水路(青)はある。
大正3年の地図に赤で示した道は浦和宿絵図のこの道(赤)と概ね重なるのでないかと思う。

2016年03月06日ブログで私は裏門通りは中山道から新規に開削したのではなく、途中から県庁方面を開削したのではないかと書いたが、表門通りはそれとは逆に県庁付近は江戸時代からあった道を拡張整備し、中山道方面はこのよう(黄)に新規開削されたのではないかと想像されるのである。

先ほどの大正3年地図と浦和宿絵図に赤で示した道を現在の地図に描くとこんな感じになるのではないかと思う。
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