咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

中央区本町東の「大和町」

2017年12月03日 | 日記
2017年11月17日ブログで私はこのような道筋を歩いた。
道路が密集している一帯を緑丸で囲む
ヤフーの空中写真で見る。密集した道路を黄で示す。
ちなみに赤で示した道は赤山街道で文政年間与野町並絵図に描かれている道だと思う。その道を赤で示す

昭和24年の地図を見る。緑丸で示したところはこのあたりになると思う。住宅が密集している。
ちなみに赤矢印は与野町役場で現在の保健センターの場所だと思う。
昭和21年の空中写真を見る。緑丸で示したところはこのあたりになると思う。同じような住宅が整然と並んでいる。

平成4年与野市発行『朝まんじゅうに昼うどん -與野ちょっと昔案内-』に<碁盤の目の町 大和町>というタイトルでこの地区の案内がされている。挿入図。以下に要約する。
①大和町(やまとちょう)は碁盤の目のようになっていて、与野としては大変珍しい町並みである。
②昭和18、19年に造幣省(被服省)の官舎として建築された。
③昭和27年、個人に払い下げられた。
④ここは霧敷川に向かって緩やかに傾斜しているが、官舎が造られる前は、傾斜は今より急で林や畑があった。
⑤官舎だったため、家の間取りは同じだった。だから一斉に玄関と北側の窓を開けると、直線的にずっと向こうまで見通すことができた。
⑥何故「大和町」という町名になったのか、はわからない。

平成17年発行『武州与野町物語(福田英夫著)』には大和町についてこのように記述されている。
町名については、 “ 当時大きな造成住宅地だったので、巨大戦艦大和にちなんで大和町としたといわれている ” とのことである。
2017年11月17日撮影の大和町自治会館掲示板

『武州与野町物語』には “ 赤羽の陸軍被服廠、十条の陸軍造兵廠の疎開住宅官舎として ” 大和町の住宅が建設されたとある。
日文研サイトデーターベース所蔵地図の大東京全圖北部方面(昭和7年10月発行)で赤羽・十条方面を見る。
赤羽駅の西に被服本廠がある。黄色の範囲を現在の地図に描くと概ねこのようになると思う。
次に十条駅付近を見ると造兵廠と表示されたところはないようである。

ところで下十条駅と十条駅を緑で囲む。「十条」は「じふでう」と書かれていると思う。
現在「下十条」という駅はないが、ウィキペディア東十条駅によれば、1931年(昭和6年)8月1日 下十条駅として開業し、1957年(昭和32年)4月1日 町名変更により東十条駅に改称した。

十条駅(じふでう)の下(南)に兵器製造所が黄色で示されている。
現在の地図ではこのあたりになると思う。陸上自衛隊十条駐屯地、学校がある。
十条駅(じふでう)の左上には兵器支廠が黄色で示されている。
現在の地図ではこのあたりになると思う。
コメント (2)
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