咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

明治22年の埼玉県管内全図 (3)

2016年09月23日 | 日記
明治22年の埼玉県管内全図に浦和町から安行村方面に延びる道がある。
中山道から日光御成道までを赤で示す

明治35年浦和町営業便覧の浦和町略図に中山道から東に延びる「清水屋横町」「越ヶ谷道」が表示されている。
大正3年の地図でその場所を見ると、浦和越ヶ谷道は「尾間木大門ヲ経テ越ヶ谷ニ至ル」と補足説明されている。

平成4年浦和市発行『わがまち浦和 地域別案内(改訂版)』に市内の主要道路が紹介されており、越谷県道についてはこのように案内されている。この案内の後半に明治のころの越谷道が案内されている。
この案内によれば、明治のころの越谷道は附島橋の手前で赤山街道と一緒になって日光御成道に出る。
私は先ほど明治22年の埼玉県管内全図に赤で示した道が明治のころの越谷道(日光御成道まで)だと思う。
大正3年の地図には「大門ヲ経テ越ヶ谷ニ至ル」とあったので、越谷道は日光御成道を左折して大門に向かったと思う。

日文研サイトデーターベース所蔵地図から大日本帝国参謀本部測量局の明治13年測量地図で越谷道と思われる道を中山道から大門まで辿ってみる。
5分割になった。5-15-25-35-45-5
大門から越谷までは2016年07月23日ブログでこのように推定した。
明治のころの越谷道を中山道から大門まで現在の地図に描くと、概ねこんな感じになると思う。

『わがまち浦和 地域別案内(改訂版)』の案内には「赤山街道と一緒になり、八丁堤を通って・・・」との記述がある。
以前、芝川に架かる八丁橋の袂で八丁堤の案内板を見た。案内板最後の “「赤山街道」の一部 ” というのは大体見沼代用水東縁から西縁の区間で、昔の見沼溜井の堤防道だということだと思う。
見沼たんぼのホームページ見沼たんぼの歴史に掲載の解説と図

明治22年の埼玉県管内全図で八丁堤あたりを見ると、川は見沼代用水東縁しか描かれていない。
見沼代用水西縁は本題ブログ(2)で触れたように、途中で高沼用水路に移った。芝川は初めから描かれていない。

見沼代用水東縁に架かる山口橋を東から見た2012年10月の写真。山口橋から上流を見た同日の写真
山口橋を西から見た2013年4月の写真。

芝川に架かる八丁橋を東から見た2012年10月の写真。西から見た同日の写真
八丁橋(歩道)から芝川下流を見た2013年4月の写真
見沼代用水西縁に架かる附島橋の袂から上流を見た2013年10月の写真
コメント
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