井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

高倉健が作り上げた高倉健という「男」

2014年11月24日 | ドラマ

健さんと誰もがそう呼ぶ。ファンに愛されたくて、そのために

生涯を捧げたような方だ。本望だろう。

健さんの本に「あなたに褒められたくて」という著書があり、未読だが仄聞するところによると、母恋の記であるらしく、愛する母のために演じていたというようなことであるらしい。

しかし、私は思うのだが健さんの含羞でそうは言わないが常に「人々の愛が欲しい」
方でもなかったか。そのために、ひたすら銀幕で観客の求める男を演じ続け、
見えているようで全く見えていない私生活では、人々の視線をカメラ代わりに
これもまたひたすら演じ続けた。

息が詰まりそうになると、海外の某所へ遁走して、そこでのみ高倉健という
「役」から降りていらしたのだと思う。海外でも知られた方なので、私の耳に入る
その国のその地方の中でも、田舎のほうに身を潜めていらしたのでは
ないかと思う。共に息を楽に出来る人がそこにはいた、と思う。

共演した女優さんが私にこう訴えた。
「高倉さんと寄り添って歩くシーンがあるのだけど、私寂しくて、寂しくて。だって高倉さんの意識が私のほうに全然来ないのよ」

それを聞いた時の私はさもありなんと思い、しかしその時はどちらかというと
否定的な思いが伴っていたが、今は肯定する。

世界の高倉健だもの。

脇にいる女優に意識など向けず、ひたすらご自分がスクリーンにどう写っているかだけに集中なさればよろしい。

一時代を作ったスターであると同時に、偉大なるアイドルでもあり続けたのだから、スポットライトは常に健さんに当たっていれば良いので、女優はその陰にいればよい。健さんだからこれが言える。

カメラの写し方にもクローズアップ、バストショットとこだわりがあり、だからそれを仕切ってくれる監督としか組まない。概ね降旗康男監督だった。降旗監督とはしばらく年賀状のやりとりをしていたことがある。

正直に言えば、私が健さん主演映画のオファーをお断りしたのは
先に書いた理由の他に、心のなかで呟いた理由もう一つ、ある。

(何を書こうとどうせ、健さんプロモーション・ビデオになるんだろうし、またそういう脚本しか受け入れてくれないだろうし、私は悪いけど健さんへの仕え人の一人にはならねーよ)

今はじめて、その時の気持ちを書いた。

書いたのは、去られてさしさわりがなくなったからではない、そのことを
私が包み込み許容し、肯定的に捉えられる年齢になったからだ。

健さんを神輿に乗せて担ぐ人しかスタッフには要らない。
いたって当然のことである。

だって、世界の高倉健だもの。

今だったら私も全身全霊で、高倉健というスターに仕える。仕えられる。
オファーを頂いたとき、私は若すぎた。
駆け出しのペーペー脚本家が、高倉健にタイマン張るの図。
要するに私に高倉健に向けて書かせるのではなく、私の本に
高倉健を添わせろ、と。
それなら書いてやらないでもない、と。
いっそ、可愛らしいくらい愚かの極みである。
若さの勘違いというものは本当にどうしようもないものである。

今なら健さんに奉仕しつつ、自らを活かす道を探す。
あるいはいっそ、無我に徹してひたすら高倉健を輝かせるための
本を書く。

共演の女優は言った。

「スタッフから大事に大事に扱われていることが感じ取れないと、
すねて、ロケ先から東京に帰っちゃうのよ。お姫さまだから」

聞いた当時は否定的に聞いた。今は肯定である。

当然である。高倉健は常に常に、現場の意識の中心にいなくてはならない。

だって、高倉健だもの。

そのくらいの自己愛と矜持があって、スターになれる。

健さんが凡百と違っていたのは、人に要求するかわりに
ご自身も出番がないときに、ロケ地の片隅に佇むなどして
努力を怠られなかった。

嘘か真か知らぬのだが、私のとても好きな浅丘ルリ子さんの
エピソードがある。

監督がルリ子さんに、化粧を取るよう要求したら、

「出来ません。だって、これが私の素顔ですもの」

名セリフというべきだろう。

人の目にはこう見えて欲しい、と願ったそのままの姿を
最後まで演じきった健さん。

高倉健という仮面を取ったら、そこには素顔すらない、ただ虚(うろ)があるのみだろう。

見事で鮮やかで、幸せな一生であった。

健さん、生意気な若造であった井沢満です。音楽のプロデューサー宛の
お手紙で、フルネームを書いて頂きましたが、もうご記憶では
ないかもしれません。

今はじめて素直に言えます、
あなたが好きです。仕事を一緒にしなかったこと、とても悔いています、と。

私はきっと、すねてそっぽを向いていたのです。あなたという存在が放つ
光のまばゆさの中で、影にしかなれないであろう自分が悔しくて。