ガチ坊の おもひで日誌

ノスタルジー、メモリー、レトロ。ほぼ、3分間で読むほっこりタイム。

泡のようなアイドル(4)

2014-11-27 08:00:00 | 近世アイドル考
震災後には、浅草は大打撃で復興を待つために色々な芸人やダンサー一座は、地方巡業に出ましたが、日本歌劇座と名乗っていた一座もミカゲ喜歌劇座と改称して、地方公演に回ります。

河合澄子さんはその頃は関西に流れてダンサーとして暮らしていたようです。月日の流れとともに河合澄子の名前も忘れられていた存在でしたが、ミカゲ喜歌劇座に誘われて神戸公演に合流したそうです。

その頃のミカゲ喜歌劇座ダンサーとしてのスターは17歳のアイドル相良愛子さんでした、震災を軸にしたまさに世代交代で、舞台ではかつての人気ダンサーのように、上目遣いでコケティッシュな魅力を振りまくお約束ポーズが受けていたようです。

河合澄子サンはその頃すでに25歳、同じ舞台に立つにはかなり若さが足りませんでしたが、やや大人びた姿で相良愛子さんに比しても衰えぬ拍手をされたというから、驚きです。

やがてミカゲ喜歌劇座は浅草の復興とともに、河合澄子さんも16年ぶりに浅草に凱旋しますが、一座はやがて解散。河合澄子サンは沢マセロとともに森歌劇団に加入し、またまた東京歌劇座で大ブレイク。

かつての人気を取戻したかのように贔屓の客を集めますが、キワモノ的な赤裸々ダンスや露出度の多い演目が、やがて当局の指摘を受け人気演目の上演停止などでこの劇団も解散。次に河合澄子サンが所属したのは、なんと映画の牧野省三氏が率いるマキノ・プロダクション。

ここで映画に進出かと騒がれますが、マネージメントだけで浅草は金龍館の喜劇春秋座の公演にダンサーとして出演。看板ダンサーとしての待遇かと思いきや、ポスターの扱いは大文字であっても喜劇春秋座には既に看板の橘花 枝ら3名がおり、そこに入っていく隙間は無かったようです。

やがて加入した翌年春には退団しています、理由はやはり自分の処遇に反発したのでしょう。まだスターという気分があったようです。

そしてその後は、ゴシップ、スキャンダルで打った名前は世の中や浅草オペラからも忘れられ、さらに浅草オペラの衰退もあって、今に残されている彼女の輝きを失った舞台の模様は、川端康成の浅草小説の中で「白痴の脂肪のような河合澄子」と書いているだけです。

舞台上では女性性を、舞台外ではエロそのものを武器にしたスキャンダルな存在感は今の清純性で売るアイドルが、次のステップに進むあるカタチからを先駆けているような気がします。その後の河合澄子の消息は杳としてしれず、舞台を降りて幸せな人生を送ったのかどうかもわからないようです。
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泡のようなアイドル(3)

2014-11-18 08:00:00 | 近世アイドル考
河合澄子さんは、同時代の天才と言われた沢モリノ嬢と比較すると実力は天と地ほどの差があったようです。
特にダンスが苦手(ダンサーなのに?)だった河合サンが活路を見出したのは、その恵まれたボディと当世風の美人と言われた容貌を活かすこと。

メリヤスのタイツに包まれた脚部とスカートを翻しながら、舞台で男性客に媚びと愛嬌を振りまき、コケティッシュで 挑発的な目付きと身振りで、新しい演劇である浅草オペラの評判を見に来た学生を中心に河合ファンを掴んだ。

その頃の学生さんは、贔屓のオペラ女優と親 しくなると楽屋に押しかけたり、お目当ての女優が出てくるまでのあいだは浅草の街を徘徊し、学校に行っている時間はなく、ついに実状を見かねた学校側は、浅草オペラの観覧を禁止した学校もあったほどです。

こうした人気の中心にいたのが、河合サンでオペラ女優の後援会の学生 40 名前後が風紀紊乱問題で検挙された事件が新聞などで報じられたり、最も会員数の多い オペラ女優として河合サンの名が新聞紙を賑わし、通称「発展 女優、問題の女」と称されたようです。(舞台上の化粧ですが、なんだかなぁ、ですね)

上目遣いに客席を見つめ、鼻にかける声で歌詞を語りかけるように歌うなどして、歌も決してうまいと言えないが、今と同じで実力よりも存在感と若い学生をかどわかすスキャンダルでオペラ女優として名を成したようです。

1918年3月、そうした人気を当て込んで自ら座長となり日本バンドマンー座を御園座で旗揚げしますが、残念ながら河合サン一人の人気に頼った歌劇団だったために、名が知られた都市部ではマァマァでも、肝心の地方巡演に出て辛酸をなめて結局一座は解散、浅草に戻ってきても、一時は芸能活動を中断する事になったようです。

次の河合サンの派手な活動時期は関東大震災後にもう一花咲かせてしまいます。
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泡のようなアイドル(2)

2014-11-09 08:00:00 | 近世アイドル考
浅草オペラというのが、大正期に流行したようで、日本の歌舞伎や劇団と違っていわゆる洋物とよばれた踊りや軽演劇を西洋人に扮してカツラをカブって日本人が演じてたようです。

浅草オペラは、大正6年1月 22 日初日の高木徳子一座公演(於・常盤座)を以て始まっ たとされてますが、ブレイクを招いたのは、同年 10 月に日本館で旗揚げした東京歌劇座、そしてその立役者となったのが、人気を二分した河合澄子と沢モリノであり、この二人は浅草オペラの「功労者」だったようです。

しかしこのお二人はスターではありましたが、内容が少々違っていました。実力容姿を比較すると沢モリノ嬢は圧倒的なキャリアなのですが、河合澄子サンの場合はちょっと盛ったスターなんですね。

河合澄子サンは、そもそも新宿病院の看護婦をされていたようですが、浅草に開場したローヤル館というところで初めてオペラやオペレッタに触れ、なんとかその道に関係したいと頻繁に高木徳子一座に出入りしていたそうです。

ところがなにせ何の修練もない素人なものでダンサーを目指したものの「ローヤル館に一月いて追出され、高木徳子の弟子になったが直ぐにクビ」という有り様で、何とかツテを求めてと、東京歌劇座での旗揚げ公演に参加されたようです。

しかしながら、東京歌劇座には既に確固たる地位を築いていた帝劇歌劇部出身の石井漠と沢モリノがいたのですね。石井漠は後に舞踊家として我が国のモダンダンスを確立し、一方の沢モリノは帝劇時代にローシーがその才能を見込んで、イタリアの歌手モリノーに因んだ芸名を授けたダンサーでした。

さて先んじる先輩の実力に比較して、河合澄子サンのキャリアは前述のとおりで、比較にもならない。東京歌劇座に参加したと言うものの、河合澄子さん実は東京歌劇座・コーラス隊募集に応じた初心者のコーラスガールの一人だったのである。レベルは天と地ほど違う立ち位置だったんですね。

そこでなんとか衆目を集めたい、アイドルとなりたい河合サンは、小柄でキュートな容貌と、ローシー仕込みの軽やかな踊り振りで人気を集めていた沢モリノに対抗するために、やはりエロ作戦しかないと、それを敢行するのでした。

舞台上でカラダを濃艶にくねらせ、客に流し目を送り、更には自らの名刺を大量に撒き、ステージ外ではあえてスキャンダルを捏造してまで、マスコミに載り話題の中心にならんと頑張ったようです。まるで近年のスキャンダル・アイドルみたいですね。

こういう努力が功を奏して徐々に彼女目当ての観客が劇場に来るようになり、ファンを増やす努力を舞台上でも劇場外でも怠らなかったようです。親しくなったファンを楽屋に招くなどのサービス目当てで押し寄せる取り巻き、追っかけが遂に一介のコーラスガールから、東京歌劇座のスターと人気を二分するまでにのし上がっ たのですから、人間努力は実力と関係なく開花するものなんですね。
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泡のようなアイドル

2014-10-30 08:00:00 | 近世アイドル考
川端康成の浅草紅団とか読んでいると、今の観光名所の浅草とは違う熱気があります。

関東大震災以降の都市の街並描写や、その場所に徘徊する浮浪者、乞食、娼婦、ポン引き、踊子、見世物小屋、エログロ・ナンセンスなどの美と醜が混在する風俗を不良少女の一人を中心として綴られています。

いまは町並みも穏やかでアサヒビール本社の泡なのか、ウンチなのか(失礼)のシンボルが周りの景観と調和してなくて、近年のスカイツリーでようやく盛り返したものの、でも休日の面影は地下鉄の駅の人の流れを見てもローカルの小都市の混雑といった感じですね。

林芙美子さんもお若いころにカフェ~で働いてた場所はやはり浅草でした。ソレを読んでも相当な歓楽街だったみたいで、浅草を通る人達の量の多さが短編小説や放浪記からなんとなく伺えます。

今の六区はなんとなく雑多な感じで人通りもそんなに多く有りませんけど、昔は絵葉書のようにとんでもない人がシネマを見ようとか、演劇を見ようとか押すな押すなだったみたいですね。

こういう街に浅草レビューとかオペラとか、いわゆるアチラ物の国内版軽演劇が随分隆盛を極めたようで、自然と演劇人や歌とダンスの浅草オペラにも衆目を集めるアイドルが誕生したようです。その一人があっという間にスターになって消えていった河合澄子サンという人ですね。
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アイドルマジシャン(8)

2014-10-20 08:00:00 | 近世アイドル考
こう言ってはなんですが、松旭斎天勝サンって、ちょっと女性マジシャンとしてはキワモノといいますか、色んなスキャンダルも売り物にして舞台に客足を惹きつけるし、エロビームむんむんで来たお客を虜にするし、今でいえばレディー・ガガか、マドンナのような存在だったかもですね。

これだけ刺激的な要素を持っているのに、十一歳でデビューして、飽きられもせず五十歳まで第一線で活躍したのは、マジシャンとして実力もかなりなものだったんでしょうね。にも関わらずお客を楽しませるために前歯には宝石がちりばめてあって、笑うとそれがキラキラと光る。

小説家の三島由紀夫もそういうキテレツな女性マジシャンに魅せられた人だったようで、幼い頃、神秘的な天勝の姿にあこがれたと自著の「仮面の告白」にありますね。

天勝の舞台は、それまでの奇術がサーカスの見世物紛いであったのを、ショー的要素を拡大し、大掛かりな人体切断や密閉された箱の中から瞬時に脱出するといった奇術もあれば、細かいトランプやロープ、ハンカチを手先で器用に扱った手品、さらに奇術を取り入れた芝居「サロメ」やミュージカルやレビュー要素を入れたマジックも入れたりして、とにかく工夫に満ち溢れたショーだったのでしょうね。

五十八歳で二度目の結婚の旦那さんに看取られてこの世を去るまで、非常に不思議な女性マジシャンであり、その後のアイドルの型を作った人かもしれません。
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