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終わっていった過去

2012年06月01日 | あれこれ思う
気を取り直して、もう少しoutputする。


離婚を決めた時、「0対100であっちが悪い」と思っていた。

そう、私は完全な「被害者」だった。
自分をそうとらえていた。

その時は、それが必要だったんだろう。
そのくやしさで、なんとか踏ん張って、毎日の生活を乗り越えていった。
離婚することによって、何かを失ったと思いたくなかった。
だから、運転免許も取って車も買った。
それまで行けていたところに、ひとりでは行けないということが悔しかったから。

買ったばかりで35年ローンが始まったばかりのマンション。
名義の書き換えも、ローンの借り換えも、全部ひとりで手続きした。
いい加減で根性の無い元だんには出来ないだろう、でも私はひとりで出来るもん!と。

それからしばらくは頑張って頑張って頑張ったなぁ。

ざっくり端折るけど、それからまたいろんなことがあって、
いつの間にかスピリチュアルな道に足を踏み入れて。

いつだったか、「私も悪い」と気がついた。
物事に、0対100はあり得ない。
向こうも悪いけど、こっちも悪い。

0対100が、1対99になり、10対90になり。

30対70くらいになり。

やっぱり、50対50かな、と思うようなり(^^ゞ

途中、自分の方が悪いと思った時期もあった。
こんな自分だったからダメだったんだ、と。
私も加害者だった、ではなく、私が加害者だったと自分を責めたこともある。


でも、結局、どっちもどっちだと思うようになった。
どっちも悪かったよな、と。
何にも考えずに結婚なんかしちゃったんだもん。

そんなふうに納得していた。
うん。
「納得」していたんだ。




「女性性の癒し」というテーマがぽっかりと出てきて、最初は、傷ついた自分、つまり被害者だったかわいそうな自分をあらためて優しく感じてあげるのかなって思った。

でも違う。

一方的に被害者だったわけではなく、被害者でもあり、加害者でもあった。

そう気がついた。


そして、それも違うんだよね。


被害者でも加害者でもない。

ただ、ベストなタイミングで、ベストな人に出会っただけ。
お互いに、あのとき、あのタイミングで必要な人だった。

必要なことが起きただけ。

いいも悪いも無い。

ただ起きたこと。


全ては最善。






今まで、「全ては最善」と言っている人に何か違和感を感じていた。
「最善のことが起きている」と言ってそれ以上見ようとしない。
ふたをしてしまっているような。
振り返りも反省もしないで、ただそう言って終わりにしてたら、進歩は無いんじゃないの?って思ったり。
でもどこがどう違うのか、自分の感じるその「違和感」をうまく表現できなかった。


「最善」って、受け入れることなんだよね。
ちゃんと全部味わって。
痛みも苦しさも、嬉しさも楽しさも、全部感じ切って受け入れる。

そうしたら、もうそれを痛みとも喜びとも名づける必要がないことがわかる。

それがただ「最善」ということ。

出来事でも行為でもなく、ただその状態まるごとのことを「最善」と呼ぶのだ。



その強さ、美しさ。


それを、今、感じる。



受け入れるということは、受け身でも弱さでもなく、

積極的で、強く、

そして、豊かで、美しい。



自分の中にあるものが、

さらに強く、さらに豊かになったことを感じる。

その美しさこそが、「女性性」なのだと思う。


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終わっていく過去(女性性の癒し3)

2012年06月01日 | あれこれ思う
離婚を決めた時、「0対100であっちが悪い」と思っていた。
もう1回、今度は素晴らしい人と結婚して、絶対に幸せになってやるって思った。


元だんという人は、北海道出身の本当に素朴でいい人だった。
そう、「いい人」だった、バ○がつくくらい(-_-;)

一番付き合いの長い友達に結婚することを報告したら、「ぜひ一度会わせてね。」と言われた。
3人で会って食事をして。
そのあと、2人だけになったときに彼女は言った。

むっちゃんの好きな人って、尊敬できる人だよね?
なんだか意外なんだけど...。


実家に挨拶に行ったあと、父から言われた。

彼は東京で仕事をしていく覚悟は出来ているのか?

ほんの数時間しか一緒にいなかったのに、特につっこんだ話をしたわけではなかったのに。
彼は東京のような大都会で、競争してそれでも踏ん張って頑張って、男としてしっかり生きていけるのか、と父は言いたかったようだ。


私だってそれは薄々わかっていた。
でも結婚を止める理由にはならなかった。

だって、ラクだったから。


一緒にいてもなんにも気を使わなくていいし、頑張らなくても飾らなくてもよくて、そのまんまでラクだった。
それは会った瞬間からそうだった。

でもまあそんなことは、後からアタマで考えて理解したことだ。
そのときは、ただただラクでだらだらと付き合っているのが新鮮で楽しかった。



付き合い始めてしばらくして、ひとつのビジョンをみた。
夢ではなく、目が覚めているとき。白昼夢とでもいうのか。

ふわふわと漂っていたそれまでの自分。
それが下に、地面へと降りていく。

そこにはたくさんの人が待ちかまえていてくれる。
魚屋さんとか八百屋さんとか、駅員さんとか、近所の人たち。
この世界できちんと地道に働いて日々を生きている人というようなイメージ。

地面の数十センチ上を漂っていた自分が、やっと着地する。
みんなが「良かったね」「よく来たね」と、パチパチ拍手して迎えてくれる。

ああ、私はやっとこの世界に迎え入れてもらったんだ。
やっと私、着地出来た!

ほっとして安心して、涙がこぼれた。
嬉しくてたまらなかった。


それまでふわふわと漂っている自分、なんて感じたことはまったく無かった。
それでもこのとき、「着地した」という実感があった。
この人が、私をこの世界につなぎとめてくれるのか、と思った。




忘れてました。
このことも。

覚えてたけど、忘れてた。


なんか、「くっそー!」って感じだ。
ホントは、もっと違うこと書くつもりだったのにな。

これを思い出す必要があったのか。


くっそー!!

ホント、いろいろとごめんなさいっ!!とありがとうだっ!!


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終わっていく過去(女性性の癒し2)

2012年05月31日 | あれこれ思う
ビデオの件を思い出した時に、
「こんな大事なこと、すっかり忘れていたなんて?!」
と驚いた。

でも、もっと凄いことをすっかり忘れていた。
それからだいぶたってから気がついた。
つまり、ビデオのことを思い出したときには、思い出せなかった。

それは、

そもそも、なんで結婚したんだっけ?


どっひゃ〜ヽ(^o^)丿




私は、自分が「結婚」というものをするとはまったく思っていなかった。
関心が無かった。
どこかで、自分とはまったく関係ないことだと思っていた。
結婚して子供を産んで家族を作ってということに、まるで実感が無かった。


大学生のとき、数人集まってわいわいと話をしていたときのことだ。

結婚したら仕事はどうするか。
子供が出来たらどうするか。
いったんやめて、子供が大きくなったらまた働くのか。働けるのか。
仕事を続けるためには、どういう仕事を選んだらいいのか。


熱心に話す友達を見ていて、思った。

なんで、結婚するってことが前提になってるの?
絶対に結婚するって、なんで思うの?
結婚するとは限らないよね。


そう尋ねると、ひとりがこんなことを言った。

高校生のときの授業(なんの授業かは忘れた)で、結婚率みたいな円グラフがあったでしょ。
全体の8割(だったか9割だったかは忘れた)が生涯で1回は結婚するって。
それだけほとんどの人が結婚するならば、きっと自分もよほどのことが無い限り、結婚するものだって思うでしょー。


私も同じグラフを見た記憶はあった。でも。

これだけほとんどの人が結婚する中でも、結婚しない1割(か2割)っていうのが確実にいる。
それならば、自分はその1割だと思う。


この違いはなんなんだ(~_~;)
この真逆の反応に自分でもびっくりだったので、このときのことはよく覚えている。


別に結婚を嫌悪していたとかということもない。
ただ「私はしないな」とだけ思っていた。
理由もない。
まったく「関係無いこと」だった。



そんな私がなぜ、結婚したか。


確か20代の終わりか30代の初め。
駅ビルの中にあるカルチャーセンターの「ヨガと瞑想」というクラスに行っていた。
とてつもなくカラダの固い私が、なんでヨガのクラスに通い始めたのかはあまりよく覚えていない。
ヨガだけだとついていけないけれど、瞑想とセットになっているのなら、あまりハードでないだろうとこのクラスを選んだような気がする。
平日の夜、仕事帰りに寄るのにちょうどいい時間だった。

クラスの最中にふと気がつくと、先生の師匠にあたる人が後ろにいることがたまにあった。
最後にその方が少しお話しをされることもあった。

何ヶ月か続けるうちに、同年代だった先生とも親しくなって、その師匠にあたる方のお話会に誘われて本部に行ったりもした。(こうやって書くと、なんかあやしい勧誘ちっくだな^_^;)
マンションの1室で、集まる人も10人前後の小さな会だった。
一度だけ、ヨガ合宿というのにも参加した。(合宿と言っても、通いだったが。)
そんなこんなの距離感でヨガをなんとなく続けているときに、その方がインドで公開サマディを行うという話を聞いた。
女性では世界で初めての行で、5日間地中で瞑想をすると。
正直に言って、当時の私はさっぱり意味がわからなかった。

飲まず食わずで地下に埋められちゃっても死なないの???
5日間、ずっと座りっぱなしだったら、足腰立たなくなるよね???
といった疑問だらけ。
それでもまあ、ヨガの先生とのお付き合いというような感覚で、あまりよくわかっていないままご寄付のようなことをした。(つまりそんな大金じゃありません。)
お祈りをしていただくお布施のようなもの。
行が無事あけた、その祝福の場で祈願とともに燃やしていただける。
つきましては、願い事を書いて提出してくださいと言われた。

でも特に何も思い浮かばない。
そのころから既に、あまり何かを欲するということがない人だったので、何かとりたててお願いするようなことも考えつかなかった。
それで、ヨガの先生に聞いてみた。

どんなことをお願いすればいいんですか?
みなさんどんなことを願われるんですか?


やっぱり独身の女性の場合は、結婚できますようにというのが多いかなー。

いやー、私は別に結婚したいと思っていなんですけど...。

それでも結局なんにも願い事が思い浮かばず、期限も迫ってきて、とりあえずまあいいっかーと。
「素晴らしい伴侶にめぐり合えますように。」と書いたような気がする。
正確な文章は忘れたが。
確か、100回紙に書いたような記憶があるなぁ。
それを封して、インドまで持って行ってもらって、お焚き上げみたいのしていただいたんですね。
火にくべているのを、後からビデオで見せていただきました。
先生が地中にいる5日間は一緒に精進もしてました。
玄米菜食で、インド時間に合わせて瞑想したり。


それでもう結末は想像ついてると思いますが。

その1年後くらいに元だんと知り合って、あっという間に「結婚」しちゃったんですね。
初めて会ったちょうど1年後に入籍しました。

それまでまったくなんにも考えていなかったのに、「結婚」しちゃったんですからね。
ふってわいたように、元だんは突然現れたんですから(~_~;)
やっぱり、なんか成就しちゃったんでしょうね。
ただのお付き合いでもいいのに、なぜか「結婚」の流れになってました。

引き寄せの法則とか、新月のアファメーションとか、思考は現実化するとか。
最近のそういうものぶっちぎりって感じで、20年前に経験してたんですね。
願い事は、100回書いたその後はもうすっかり忘れていました。
願った後は忘れる(手放す)ってこと、大事なんだなぁ。

そんないきさつがあったんだってこと、長いこと忘れてました。すっかり。


この先生のことは記憶の奥底にはあったのです。

1回目のサマディを終えてしばらくはまだ、たまにふらっとカルチャースクールのクラスに現れることもありました。
多分、そんなときに聞いた話がこれ
 いや〜、それにしてもこの文章。
 3年ちょっと前でもこんなにカチコチだ、自分(~_~;)
 かわいいっちゃ、かわいいけど。
 必死だな、オマエ、って感じ。



今は凄い組織になっているみたいですが(@_@;)(ちょっとぐぐってみた)
当時はまだまだアットホームな集まりで、私は瞑想用のマントラもいただいたし、ヨガ合宿に行ったときに呼ばれてイニシエーションみたいのも受けてました。
サマディのおみやげで数珠もいただいてた。護符みたいのもあった、そういえば。
いやー、びっくり。
ホントに何も知らずに、なんだかわからないまま、受けてました。



それにしても、いろんなことは忘れるのに、瞑想のマントラって忘れないものなんだなー。
口伝で耳元でささやかれたのだけど、今でもごくたまにそのマントラを唱えることもある。
なにしろ瞑想は苦手、ひとりでやるとすぐに寝てしまう人なのだけれど、ここのところ「瞑想」ということがよく目に入ってくるってことは、1度まじめに取り組んでみる時期なのかもしれない。


いつまでたっても「女性性の癒し」の話にたどりつかないけれど、芋づる式に思い出すあれやこれや全部ひっくるめて、もう一度思い出して感じて忘れる、というプロセスを今やっているのかもしれない。


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終わっていく過去 (女性性の癒し)

2012年05月30日 | あれこれ思う
自由な生活になってから、まったく忘れていた過去を思い出すということが、ぽつりぽつりと起きていた。
今まで忙しすぎて、味わいきること・感じきることが出来ていなかったことが、もう1回陽の光の下にでてきて、感じて、そして終わっていく。


そんなことのひとつに、結婚といおうか、元だんなのことがある。

今の自分にとっては、結婚していたことがあったなんて自分でも信じられないくらい遠い昔のことで、まったく実感が無い。
いったいいつごろだったかさえ覚えていないので、今ちょっと各種書類を探してみた。
どうやら平成11年の6月に離婚したらしい。
6月に離婚したことさえ、記憶になかった。
もう13年も前のことだから、そりゃ、覚えてないはずだ。
5年ちょっとの結婚生活だった。



去年、片づけ祭りをしているときに、
「そういえば、あのビデオはどうしたんだろうか?」
と思い出した。
(いや、ビデオってあやしいのじゃないですから(~_~;))


元だんと知り合ったのは、某有名アーティストのファンつながりの場だった。
パソコン通信の中のファンの集まりみたいな、今で言うとmixiのコミュみたいな場で知り合ったのだった。
今でこそインターネットが当たり前にあって、ネットで知り合うなんてごく普通のことになっているけれど、当時はやっとインターネットが出現したばかりのころで、パソコン通信全盛期。
一般社会の中ではパソコン通信というものも、まだそれほどポピュラーではない時代で、「ネットで知り合って結婚」というのは言う相手を選んだ。
うっかり言うと、アブナイ人・アヤシイ人とか、騙されてると思われかねなかった。

今からは想像がつかないかもしれないけれど、20年弱前ってそんな時代だったんですよ。
windowsだって、まだ画面は1枚だったし。
マックだって、カラークラシックが出て、LC630が出て、やっと普通の人でも買える値段になってきたころ。
私が初めて自分で買ったパソコンはLC630だった。
それまでは、友達から貰った中古の98とか使ってたりしたんだよなぁ。

そういえば、通信カラオケというものが出来たのもこのころで、それまではカラオケとは1曲100円でスナックで歌うものというイメージだった。
通信カラオケのカラオケボックスが出来て、こんなに曲が入っている!と大騒ぎして、オフ会とかやりました。
ありったけのそのアーティストの曲を入れて、2時間とか3時間、ぶっ通しで全員で歌うとか(^_^;)

そんな仲間内で知り合って結婚したので、そしてネットの黎明期みたいな時代でもあったせいか、なんとその超有名アーティストから、結婚おめでとうのビデオメッセージをいただいたのでした。

結婚するということを知った仲間たちがサプライズパーティーを開いてくれて、そこで最後に「なんとあの人からも!」と、ビデオでご本人登場。
ダメ元で、結婚する二人にメッセージをいただけたら、とメールしたら、なんとビデオを撮って送ってくれたそうな。
ビデオだって、そんなにありふれた時代じゃなかったんですよー。
プロモーションビデオだって、これからの時代。

いやー、私たち二人より他のメンバーの方が、まさかのご本人登場に大騒ぎだった。
「こんなにファンを大事にしてくれる!」ってことで、みんな大はしゃぎだったなぁ(*^_^*)

「○○(←その集まりの名称)のみんな!」って言ってるみんなの中には、オレも入ってるんだよぉ!
オレのことも呼んでくれたってことじゃないかぁーーー!
みたいな感じで(^_^;)

そういえば、その後に本人からメールも貰ったなぁ。

こんなにみんなに祝福されて結婚したのに。
ごめんね、別れちゃって(笑)
今も円満に暮らしていたら、あのビデオは超お宝映像だったのに。
「生活といううすのろ」を乗り越えること、出来なかったです...( - -)トオイメ


結局、そのビデオは片づけ祭りで見つからず、恐らく、離婚の際にあちらの荷物の中にブチ込んでやったのだと思う。



タイソウなタイトルを付けたわりに、書き出したらなんだかこんな過去を懐かしむ内容になっちゃいました。
これはこれで面白いけれど、書こうと思ったところに全くたどりつけない。
このさい外に出したいこと、まだまだあるので、シリーズで書く(かもしれない)。


いったん、CM入りま〜す(▼_▼)o¶タモリ


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いろいろあって今がある。
6月から、正式オープンします。

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ゴミ出し

2012年05月28日 | あれこれ思う
昨日、ひとりきりの真夜中、ぼーっと考えてた。


ひとりきりじゃないって
いつも必ず共にいる存在があるって
そう言ったってさ
イエスも聖霊も、切れた電球は取り換えてくれないし
せいぜい、電球が切れないようにしてくれるだけだし

やっぱり、現実的にはひとりきりなんだよなぁ。

溜まった新聞、出してくれないし
ゴミ出しだってやってくれないし ( ̄。 ̄;)ブツブツ






ゴミ出し、してるでしょ ( ̄ー ̄)ニヤ...






あ”〜!!



ゴミ出し、手伝ってくれてますね。

確かに...





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あなたはひとりではありません ( ̄ー ̄)

3次元世界ではこんなゴミ出し方法もあります。

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リーラ

2012年05月27日 | あれこれ思う

「どうか、私にやらせてください」

ではなくて

「どうか、私を使ってください」

なのだ。



私にはこれが出来る、というよりも

私はこれが出来るという才能を与えられている

ということであり、それはつまり

それをやりなさい、というメッセージなのだと思う。

だからその自分の才能・個性を表現することが、あるがままの姿。



愛というただひとつのものを

たくさんの「私」という個を通して、

さまざまな形で表現する。



そんな神々の遊びの中にいる。


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フォーカス

2012年05月23日 | メッセージ
自分の中の、「しあわせ」を感じてみると

そこには必ず、涙成分が混じっている。


少しの寂しさ

少しの哀しさ


それでもうれしい!

と思うせつなさ



あわいひかりの中

涙と歓びとともに踊っている。



どうして私の「しあわせ」はせつなさなんだろう

私の光はどうしてこんな「あわいせつなさ」なんだろう



強い光は、まっ白い光は、自分には似合わない...



強い光?

強い光?


そう思うと、それが見えた。

その強い光も、確かに自分の中にあることが

わかる。



どちらが私の本質なんだろう...



「あと100回だって人間として肉体を持って生まれ変わりたい!」

ずっとそう思ってきたのは、この「せつなさ」がたまらなく好きだから。

それが愛おしくてしかたがないから。

はかない自分が

はかない命が

はかない人間が

好きだから。



消えていくからこそ、美しい。

変わっていくからこそ、美しい。



それが変わる時が来たみたいだ。

その思考が書き換わる時が。


はかないものではない

消えていくものではない

変わっていくものではない

永遠に確かなもの。

強い命。

強い心。

強い光。



今までのまちがった思考を正す、のではなく

これからの新しい思考にフォーカスする。



決して消えない強い光。

永遠の命。



本質は滅びない。


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完全休養中

2012年05月22日 | 日々の暮らし
金環食ツアーにわざわざ行って、ゴールデンリング5分前に黒雲に覆われて結局見えないという...。
ある意味、ミラクルを体験してきました。

ここ3日間、なんやかやと非常に濃い日程を過ごし、昨日の夜はぜろ〜も見ずに寝た。
少し落ち着いてoutputしたい欲求を感じたものの。

いわゆるフラゲってやつで、美しい世界をワクワクして見てるなう!

今日はそれだけヽ(^o^)丿
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知足

2012年05月16日 | あれこれ思う
ふと思った。

「引き寄せの法則」って、いったい何を引き寄せたいんだろう?


「引き寄せ」と言われてもどうもピンとこない。
どうしても引き寄せたい何か、が思い浮かばない。

もちろん、欲しいものはそれなりにある。
目に見えるもの、目に見えないものどちらも。

それを、「引き寄せ」たいかと問われれば、うーん???
「引き寄せ」という言葉に、なんか姑息な無理やりなイメージを私が持っているのかもしれない。

どこかで、「そこまでしなくても」と思ってしまう。

そこまでして(そこまで頑張ってまで)は、欲しくない、という意味と。

そこまで頑張らなくても、本当に欲しいものはやってくるだろう、という意味と。

本当に必要だったら手に入るだろうし、手に入れるだろう。
別に「引き寄せの法則」とか言わなくても、手に入れる努力をする。
手に入らないものは、実はそんなに必要じゃないんだなと思う。

昔から、自分は物欲のようなものが薄いと感じていた。
物に限ったわけではなく、「手に入れたい欲求」みたいなもの。
だから自分のことを根性が無い、覇気が無いダメなやつだと思っていた。
エネルギー不足といおうか。
あきらめが早い。
すぐ疲れるので(-_-;)

それでもなんとなくここまで生きてきているのは、「恵まれた人生」なのかもしれない。


どうしても欲しくて欲しくて、でもかなわないもの。

は、無かったのかも。

無かった?

無かったのかなぁ。


どうしても欲しいのに手に入らないものって、多分、私にとっては執着でしかなかったのだろう。
本当の本当にそれが必要だとか、好きでたまらないとかではなく、ただの執着から欲しているもの。
手に入れたところで、幸せになれないもの。
本当はいらないもの。


幸せになるために必要なもの、に対しては貪欲かもしれない?
少し前まではそうだった。

でも今は、幸せになるために何かが必要、という考えが無くなってしまった。
何かを手に入れさえすれば幸せになれる、とは思えない。
何かが足りないから幸せじゃない、とはもう思えない。

足るを知る、ということは、「このくらいで十分ですよね。」ということではなくて、「もうすでに足りてますよね、こんなにいっぱい。」ということなのかな。


引き寄せたいものって、引き寄せなくちゃ手に入らないんだろうか。
引き寄せなくても、もう持っているんじゃないだろうか。
持っているけど見えていないだけ。
多分、こんな形をしているに違いない、って思いこんでいるから見えないんだよね。
全然違う形で持っているのかもしれない。


結局のところ、完璧なんだもんなぁ、わたしもわたしたちもこの世界も。


さて。
なぜか今日は異様に眠いので、散歩にでも行ってこよう!




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引き寄せたいものはなんですか?
それ、持ってないんでしょうか(^^ゞ
一緒に、お宝発見のプチトリップしてみませんか。
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『相手がいて「私」がわかる』

2012年05月15日 | あれこれ思う
なぜか読み忘れていた土曜の夕刊を発見して、いまごろ読む。

「青春ブックマーク」というコーナー、児童文学家 ひこ・田中さんの文章。
「私は誰?」ということについて、谷川俊太郎さんの『わたし』という絵本が紹介されていました。
(2012年5月12日 讀賣新聞 夕刊)


「おとこのこから みると おんなのこ」
「おかあさんから みると むすめの みちこ」
「さっちゃんから みると おともだち」
「うちゅうじんから みると ちきゅうじん」

そう、相手がいて、初めて「私って誰?」の答えが生まれるのです。
相手にとっても同じこと。
あなたがいるから、周りの人は自分が誰かわかります。
コミュニケーションが大切なのは、相手を知るためだけではなく、自分を知るためでもあるのですね。



もうなんてわかりやすい!!

「神は自分自身を知るために分離と言う概念を作った。」とか
「あなたはわたし。」「目の前の人は鏡」
とかとかめんどくさい言い方をしなくても(笑)
なんだもうわかりやすいじゃん!

と、ひとり納得する午後。


相手がいて「私」がわかる


まさに!

「私」を作らないとわからないんだよね。
「個」が無いとわからないんだよね。
だから、創っちゃったんだよね...。







「私」とはつまり世界との境界線ということ。

ちょうど、数日前からケン・ウィルバーの『無境界』をパラパラと再読し始めていた。




何年も前に買った本だけれど、買った当時は正直、歯が立たなかった。
見栄を張って読んでみたけれど、実際のところ何を言っているのかちんぷんかんぷんだった。
1,2年前だったか、久しぶりに手にとってみたら、「なんだわかるじゃん!」
昔は文字を追っているだけだったのが、ちゃんと読めている自分に驚いた。
そしてまたACIMとか(笑)を経験した今読むと、さらに味わい深く。
で、さらに谷川俊太郎さんの詩を読んだら、この本のことが頭に浮かんで。
何かがリンクした。


何も無いところに、ただ1本の線があらわれただけで、「あちら」と「こちら」が出来る。
その線分が結ばれて円になれば、「内」と「外」が出来る。
ただそれだけのことから、世界が出来上がっていったのだな。

「線」というのは実際のところは、存在しない。
実在するということは、それは「線」ではなくて「面」になってしまうわけで。

つまりその「境界線」という概念だけが、「私」を作っている。
「線」は実在ではない。
「線」が消えれば、この世界は何もなくなる。
何もない、のではなく、ただ在る、と言った方がいいのかもしれない。

だから

God is.

それだけなんだね。




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あなたの「私」をわかるために、私を使ってみませんか。
ワンコインセッションはもうすぐ終了だよ〜(^^ゞ
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