鈍想愚感

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最後までキリスト教の信徒であることを象徴していたシーンが印象的だった映画「沈黙」

2017-01-25 | Weblog
 25日は渋谷へ出たついでに映画「沈黙」を観賞した。遠藤周作の江戸時代の隠れキリシタンを扱った小説を、マーティン・スコセッシが監督したもので、この日が封切の日であった。映画公開日なので、なんらかのセレモニーでもあるか、少し期待したが、なんのイベントもなかった。早朝にネットで予約した段階では3分程度の入りだったが、時間前に席に着くときにはほぼ満員だった。映画は九州の長崎県にやってきた宣教師が数々の取り締まり、迫害に耐えかねて最後は転向してしまい、神は沈黙したままだ、と嘆くが、そのまま幕府の手先を務め、生涯を終えるところまで描き、信仰とは何かを問いかける力作で、十分に見ごたえがあった。

 「沈黙」は教えの師であるフェレイラ神父が日本で布教活動をしているうちに行方不明になってしまったのを聞き、日本に探しに行くことを決めたセバスチャン・ロドリゴ神父とフランシス・ガルベ神父がマカオまでやってきて、日本を知る漁師キチジローを紹介され、その手引きで長崎へやってくる場面から始まる。フェレイラが長崎に居ると聞いたからでもあるが、上陸した土地で大勢の隠れキリシタンに厚く迎えられ、キチジローの郷里でもある五島列島にも赴き、布教活動を行う。

 しかし、その動静は奉行所に知られるところとなり、信者は厳しい取り締まりに遭い、やがて村長ら3人は波打ち際に吊るされ、4日間波に洗われ、あえなく死んでしまう。そこでロドリゴ神父はガルベ神父と別れ、独自に布教活動に入ることととするが、ほどなく奉行所に見つかり、信者ともども牢に閉じ込められる。そこで、目の前で信者に役人が踏み絵を迫り、従わない者を切り殺す場面や、海岸で別に捕まえられたガルベ神父が信者を助けようとして海に沈められ殺されてしまう場面を見せられ、「神はいないのか」と自問するに至る。

 さらに長崎の寺へ連れていかれ、そこで探し求めていたフェレイラ神父と再会を果たすものの、フェレイラ神父はいまや沢野忠庵と名乗る幕府の手先となって、キリスト教の教えの間違っていることを記した「顕僞録」を著していることや医学、天文学を教えていることを知らされ、愕然とする。ロドリゴ神父はフェレイラ神父からキリシタン信者が逆さ吊りにされ殺されているのを目の前にしてキリスト教を捨て、転向した経緯を聞いて、なじるが、フェレイラ神父はいささかも動じず、「日本にはキリスト教は根着かない」といってのけ、日本には大日といって太陽をあがめる信仰があり、キリスト教となんら変わらない、とうそぶく。

 しかし、頼みのフェレイラ神父が転向したことを知ったロドリゴはフェレイラ神父と同じように目の前でキリシタンの村民が逆さ吊りにされ殺されかけているのを見て、あっさりと踏み絵に足をかける。以後、ロドリゴ神父はフェレイラ神父とともの幕府のキリシタン取り締まりの手先のようなキリスト教品々のチャックをしたり、新たに岡田三右衛門の名前を賜り、一切キリスト教から縁を切った生活に入る。キチジロウから教えを乞われても受け付けず、度々の踏み絵にも淡々と応じ、1682年かに死んだときも仏教徒として火葬に付される。が、棺桶のなかのロドリゴの和服の下にキリスト教をしのばせる品が収められていたとkろで幕となる。キリスト教の教えを最後まで捨てなかったことを物語るシーンでもあり、信仰の深さ、意味深長なことをうかがわせてくれた。

 マーティン・スコセッシ監督はこれまで「タクシー・ドライバー」や「インファナルフェア」など主にアメリカのギャング映画を撮ってきたが、今回は17世紀の日本を舞台とした宗教を扱った映画を撮った。奉行役を務めた尾形イッセイと通辞役の浅野忠信が流暢な英語を話すのは本当かなと思わせるが、演技としてはよくやっていると思われた。マーティン・スコセッシ監督は当時の日本の状況をよく理解して制作したものだと感心し、その勇敢な試みに拍手を送りたい。ここで言いたかったのは異境で宗教を布教することの難しさなのだろうか、それとも誠の信心なのだろうか、2週間くらい前にテレビインタビューではそこまで話していたのか、記憶にないが、もう一度どこかで聞いてみたいものだ、と思った。
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