実は前回の記事を書いている最中、「キミ、それは事の半分しか書いてないね」と自分に言い聞かせていた。それではちょっと気が引けるので、その続きなどを。
前の記事では、要するに、自分の置かれた状況を、それがいかなる状況であっても常に肯定する方向で解釈できる能力は素晴らしい、ということを述べた。「たとえ客観的には負けが込んでいたとしても」である。
では、「客観的な負け状態」とは如何なる状態を指すのか。貧乏だ、ニートだ、無職だ、年寄りだ、容姿が悪い、独身・子なし女だ、学歴ない、頭が悪い、身体が悪い……えらく悲惨なことばかり並べ立ておって、とお叱りを受けそうである。今、この日本で、負け組とカテゴライズされる人々の状態とは、ざっとこのような感じであろうか。
正直のところ、やれやれ、と思う。この国の人々は、自分の置かれた状況(現実存在、実存)を何かの枠に当てはめた上で、その状態を反省する、を通り越して、それを非難することがどれだけ好きなんだ、と思う。「とはいえ、これら悲惨な条件が1つ2つ重なれば、やはり問題だろう」と言われるかもしれない。そのとおり、上に挙げたことで、その人物の実存にとって不都合であると思われることには大いに反省し、その状態を改善するよう、よくよく考えを至らせるべきだ。たとえば無職であることが実存にとって都合が悪ければ、何とか職を得る努力をすべきである。勿論、無職で都合が悪くない場合だって、あり得るだろう。
現状を改善する・保留にする、どちらでもよいから、とにかく実存にとって都合がよい、可能なベストな道を選んでいけばいい。しかしそこで、いちいち自己を否定することには意味がない、といいたい。たとえば、「生れてすみません(太宰治)」とか。
いや正確には、私が「いいたい」のではなく、このように自己肯定に価値を見出すことは、キリスト教倫理的な観点から敷衍できる、ひとつのあり方なのである。ここで「キリスト教倫理的」といった場合、実存論的神学にのっとった、というただし書きつきではあるけれども。
ケッ、とどのつまりは信仰かい、と言われるかもしれない。私は前回の記事で「根拠のない自信に満ち溢れた様も、狂気じみてて恐ろしくもあり、また滑稽でもある」と書いた。信仰には根拠などありはしないではないか、そりゃ狂気だ滑稽だ、と思われるかもしれない。そういわれれば、そのとおりだ。信仰には、最終的には根拠がない。
では、自己肯定が信仰によるものだとしても、自己否定することにはどれだけの根拠があるというのだろうか。自己を否定することもまた、最終的には信仰の所作であるに過ぎないのではないか。もちろんその場合、自己を肯定する信仰とは種類の違う信仰ではあるけれども。それでもなお、自己肯定が単なる信仰に基づくものであって、自己否定することにはしかじかの根拠があると、自信をもって挙げられる人があるなら、是非それを教えてほしい。
問題は、どっちみち信仰であるならば、どちらの種類を信仰するの、という話である。私の選択は申し上げるまでもない。私は功利主義者だ。
だが、自己肯定にせよ自己否定にせよ、一種の信仰によって、ある人物が狂人になったり滑稽になったりするのは辛い。自分がそうなるもの嫌だし、他人が、社会がそうなってゆくのを見るのも嫌だ。しかしこういったことになってしまうのは、信仰を持つ者たちの宿命なのか。
そんなことは、ない。ここで、信仰のあり方、持ち方もさまざまであることを忘れてはならない。確かに、信仰が理性にないがしろにしたりすることは、残念ながら私たちの社会の中では多く見られる現象ではある。それは本当に、残念だ。しかし、信仰のあり方は、そのようなあり方ばかりとは限らない。我‐汝の関係を信仰生活の中心に据え置くあり方は、今のところマイノリティの感を拭えないかもしれない。残念である。しかし、我‐汝の関係において信仰を持つものは、その信仰に対して「自信に満ち溢れ」たりしない。いや、できないのだ。我‐汝の関係が信仰の中心である場合、私たちの実存の上に起こる出来事はすべて、相対的な価値しか持たないことになる。一切が相対である世界の住民にとっては、この世のいかなる価値に対しても、残念ながら、絶対の自信に満ち溢れることは、不可能な業となるのである。
前の記事では、要するに、自分の置かれた状況を、それがいかなる状況であっても常に肯定する方向で解釈できる能力は素晴らしい、ということを述べた。「たとえ客観的には負けが込んでいたとしても」である。
では、「客観的な負け状態」とは如何なる状態を指すのか。貧乏だ、ニートだ、無職だ、年寄りだ、容姿が悪い、独身・子なし女だ、学歴ない、頭が悪い、身体が悪い……えらく悲惨なことばかり並べ立ておって、とお叱りを受けそうである。今、この日本で、負け組とカテゴライズされる人々の状態とは、ざっとこのような感じであろうか。
正直のところ、やれやれ、と思う。この国の人々は、自分の置かれた状況(現実存在、実存)を何かの枠に当てはめた上で、その状態を反省する、を通り越して、それを非難することがどれだけ好きなんだ、と思う。「とはいえ、これら悲惨な条件が1つ2つ重なれば、やはり問題だろう」と言われるかもしれない。そのとおり、上に挙げたことで、その人物の実存にとって不都合であると思われることには大いに反省し、その状態を改善するよう、よくよく考えを至らせるべきだ。たとえば無職であることが実存にとって都合が悪ければ、何とか職を得る努力をすべきである。勿論、無職で都合が悪くない場合だって、あり得るだろう。
現状を改善する・保留にする、どちらでもよいから、とにかく実存にとって都合がよい、可能なベストな道を選んでいけばいい。しかしそこで、いちいち自己を否定することには意味がない、といいたい。たとえば、「生れてすみません(太宰治)」とか。
いや正確には、私が「いいたい」のではなく、このように自己肯定に価値を見出すことは、キリスト教倫理的な観点から敷衍できる、ひとつのあり方なのである。ここで「キリスト教倫理的」といった場合、実存論的神学にのっとった、というただし書きつきではあるけれども。
ケッ、とどのつまりは信仰かい、と言われるかもしれない。私は前回の記事で「根拠のない自信に満ち溢れた様も、狂気じみてて恐ろしくもあり、また滑稽でもある」と書いた。信仰には根拠などありはしないではないか、そりゃ狂気だ滑稽だ、と思われるかもしれない。そういわれれば、そのとおりだ。信仰には、最終的には根拠がない。
では、自己肯定が信仰によるものだとしても、自己否定することにはどれだけの根拠があるというのだろうか。自己を否定することもまた、最終的には信仰の所作であるに過ぎないのではないか。もちろんその場合、自己を肯定する信仰とは種類の違う信仰ではあるけれども。それでもなお、自己肯定が単なる信仰に基づくものであって、自己否定することにはしかじかの根拠があると、自信をもって挙げられる人があるなら、是非それを教えてほしい。
問題は、どっちみち信仰であるならば、どちらの種類を信仰するの、という話である。私の選択は申し上げるまでもない。私は功利主義者だ。
だが、自己肯定にせよ自己否定にせよ、一種の信仰によって、ある人物が狂人になったり滑稽になったりするのは辛い。自分がそうなるもの嫌だし、他人が、社会がそうなってゆくのを見るのも嫌だ。しかしこういったことになってしまうのは、信仰を持つ者たちの宿命なのか。
そんなことは、ない。ここで、信仰のあり方、持ち方もさまざまであることを忘れてはならない。確かに、信仰が理性にないがしろにしたりすることは、残念ながら私たちの社会の中では多く見られる現象ではある。それは本当に、残念だ。しかし、信仰のあり方は、そのようなあり方ばかりとは限らない。我‐汝の関係を信仰生活の中心に据え置くあり方は、今のところマイノリティの感を拭えないかもしれない。残念である。しかし、我‐汝の関係において信仰を持つものは、その信仰に対して「自信に満ち溢れ」たりしない。いや、できないのだ。我‐汝の関係が信仰の中心である場合、私たちの実存の上に起こる出来事はすべて、相対的な価値しか持たないことになる。一切が相対である世界の住民にとっては、この世のいかなる価値に対しても、残念ながら、絶対の自信に満ち溢れることは、不可能な業となるのである。










