Cafe Eucharistia

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洗礼は受けなければならないか

2006-06-28 15:02:16 | 豆大福/トロウ日記
前に私は、人々が洗礼を受けない理由は様ざまだ、と書いた。その、とても多く存在する理由の中からとりあえず、次の2つを挙げよう。
①キリスト教がどのような宗教なのかよく知らない、分からない
②キリスト教が嫌いだ(または、自分の実存にマッチしない)
まず、②の理由の持ち主に対して、私が積極的に関与できる余地はない。その人なりのキリスト教観があり、それを土台にして「嫌だ」という選択をするならば、たといその人のキリスト教観にキリスト教に対する誤解が多く含まれているとしても、私は何もできない。Rev.豆大福としては、その誤解を解くのが仕事ではないか、と言われそうだが、「誤解を解く」作業をするのはその人自身だ。私ができるのは、私の持っている(拙い)経験や知識など、あらゆる私の側面を駆使しながら、キリスト教がどのような宗教であるのかについての宣伝を、発信することだけなのである。そしてこの私の作業は、①の人々に対する伝道にもつながると信じている。

さて、今このブログ上で主に問題にしているのは、回心体験(または「聖化の確信」)を持たないうちは洗礼を受けられない、受ける気がしない人々である。前の記事で、私は回心と洗礼は、次元の異なる事柄だという提言を試みた。それで、今回は「洗礼は受けなければならないか」という問題である。一般的に、洗礼をどう捉えるかの違いにより、洗礼を受ける人間の数が変わってくる。つまり、前のコメント欄でも少し触れたが、洗礼を福音的回心の表れとみる再洗礼派に組する教団がある一方で、カトリック教会やルーテル教団、聖公会などでは、洗礼は秘蹟として捉えられており(つまり人間の実存レベルにおける回心の体験はほとんど問題にならず、いわば魔術によって、個人の外部から、その人間の全的状態が変えられてしまう)、すべての人々が無条件に受けられる(あるいは「受けるべき」)ものである。当然のこと、前者では洗礼を受ける人数は少なくなるし、後者の場合は国家プロジェクト―国教会―にさえなりうる(現在の日本の場合に当て嵌めるならば、いわば国民皆保険としての医療保険制度のようなものである)。つまり、その気になりさえすれば、ある地域の人間すべてが洗礼を受けることもあり得るほど、大人数の人々が洗礼を受けることになる。

さらに、福音的回心の重要性を極端に重視する教団、たとえばジョージ・フォックスを祖とするクェーカーや、日本の無教会主義などに至っては、洗礼を含め秘蹟の儀式は否定される。これらの教団に関して、当該教団を構成する「人数」という面に注目すると、それは教団運営がもはや不可能といってよいほどである。

まとめると、福音的回心の重要性を強調すればするほど、その教団に属する人口は反比例する、と言える。さて、私自身としては、洗礼の意味するところについて、上に挙げた捉え方の中でどれが正しいのか、正直のところよく分からない。フォックスらによる、教会史上一連の聖霊運動における敬虔は、私にとっては理想的なキリスト者・伝道者のあり方に思えるし、ジョン・ウェスレーの、Dr.大福のいう「第二の回心」体験のような体験が、自らの洗礼という儀式と同時に起こっていたならば、どれほどよかったかとあこがれる。だから、たとえばフォックスに倣って言えば、洗礼は、回心の重要性を優先させる限りにおいて、必要ないものである。これが、まず1つ目の私の結論として挙げておきたい。

しかし、再洗礼派的に言えば、洗礼を受けるときには一応の確信――キリスト者として生きる覚悟――を持つことが必要とされる。このようなあり方は、中世後期のヨーロッパにおける、従来のカトリック信仰へのアンチテーゼとしては、大変重要な役割を果たしたのだと思う。しかし物事には良い面と悪い面があるものだが、この再洗礼派的なあり方から導かれる悪い面が、現在の日本のプロテスタント・キリスト教事情に反映されている点を、私は問題にしたいと思っている。この点については、前の記事のコメント欄で、白頭庵氏との対話の中で既に述べているので、そちらを参照していただきたい。さらに、桶川氏の「モラトリアム」説、これに当て嵌まる人々も確かに多いのだと思う。桶川氏はこのモラトリアム状態にある人々に対して同情的であるようだが、私はモラトリアム状態に対してかなり厳しい視点を持っている。私にとってその状態とは、怠惰、傲慢、不義理…としてしか写らない。(だからといって、その状態にあるようにみえる人々に対して、それを面と向かって指摘することは、私は決してしない。なぜなら、その状態に身を置くことこそが、その人自身の選択であるならば、私はそれを尊重したいからだ。)しかしここまでくると、もはやそれは個人の性格、あるいは生き方の趣向と言えるのだろう。

福音書にある、放蕩息子のたとえ話(ルカ15章11節以下)を思い出していただきたい。放蕩の限りを尽くして戻ってきた息子を、父親は無条件に受け入れるのだ。この父親に対して、モラトリアムにある人々は、「いや、私はまだ準備が整っていませんので」と断るのと等しいことをしているのだ。このような態度でいるよりは、父親や僕(しもべ)たちとともに、祝宴をあげて喜ぶ方がよいではないか。
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