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回心の体験について・洗礼

2006-06-11 13:15:57 | 豆大福/トロウ日記
洗礼について、とりあえず今思うことを述べたい。その前に、「洗礼とは何か」と問われ、この問いに一言で答えよと言われたら、Rev.豆大福は何と答えるだろうか。

「挨拶の儀式」。

このことをもう少し詳しく説明するために、次の3つのテーマを立ててみた。
1.洗礼の地位
2.洗礼は受けなければならないか
3.洗礼を受けたらどうなるのか――洗礼後の生活

今回は「1.洗礼の地位」について思うところを少々。
まず洗礼は、回心の体験とは異なる。つまり、洗礼を受けたからといって、その人物が回心の体験を持ったことには必ずしもならない。むしろ、洗礼と回心体験が同時に起こることの方が極稀であろう。前のブログ記事(「宗教間対話の可能性」)で私は「体験」を説明するにあたって、もはや意識上の出来事では済まない世界に私たちは生きていることを述べたが、今そこまで踏み込むとややこしくなるので、今回はとりあえず「体験」については深入りしないことにする。私がここで言いたいのは、洗礼を受けることと回心体験は、違う次元の体験に属するものであるということだ。言い換えれば、回心の体験を持っていなくとも洗礼は受けていいし、受けるべきなのである。もっと言えば、洗礼に、回心ほどの深い意味を求めるのは間違っているのである。

洗礼と回心は、各人の体験において次元の異なるものとして存在しながら、相互に影響を与えるものである。さて、当たり前のようだが、洗礼は生涯に一度受ければ十分その役割を果たしてくれる。しかし回心は必ずしもそうとは限らない。とは言っても、生涯にそう何度も体験できるものではなく、せいぜい2,3度が限度であろう。1度も回心の体験を持てないことさえ十分あり得るし、またそのような場合の方が多いかもしれない。

洗礼は基本的に、これまで「私」が、漠然と対話を行ってきた「相手」に対する挨拶である。

・私と神との間の「挨拶」
相手:「私が『キリストの父なる神』というものです」
私:「ああ、そうだったのですか。やっとあなたの名前が分かりました。これまでも私の、漠然とした『対話の相手』としてあなたにお世話になってきましたが、これであなたがどなた様なのか、はっきりしました。これからもひとつ、よろしく」

・私と、私の生きる社会との間の「挨拶」
私:「そんなわけで、皆さんは私をクリスチャンとしてみなしてくださって結構です。どうぞよろしく」

・子の親と、神または社会との間の「挨拶」~幼児洗礼
親:「私はこの子にクリスチャンとして生きて欲しいと願います。この親心を受け止めてくだされば幸いです。神さま、どうぞよろしく。皆さまも、どうぞよろしく」

挨拶は、人間が生活する上での基本である。
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