たかたかのトレッキング

駆け足登山は卒業、これからは一日で登れる山を二日かけ自然と語らいながら自由気ままに登りたい。

小幡 歴史探訪

2013年11月18日 | 旅行
今日は風も無くとっても暖か

こんな日は紅葉を求めてドライヴと洒落たい

行先は完成した楽山園

小幡は3度目だが10年ほど前、山の帰りに寄った時は

ようやく着工にこぎ着けたばかりで広い敷地は閑散としていたものだった

大名庭園は後の楽しみにして先ずはモミジ山へと足を向けてみよう




(モミジ山登山口より楽山園“梅の茶屋”を望む)

登り始めは記念の植樹ばかりで本当にモミジ山なの?と半信半疑で登った小高い丘だったが

登り詰めた先に待っていたのは老木とも言えるモミジの林

ここは温度差が余り無いのか紅葉する前に枯れてしまっているものも有ったがガッカリさせる事はなかった








あれれ、何処かで聞き覚えの有るお名前が

まさかね


帰りは福厳寺に下りる北斜面を下った

真上に来た陽の光が赤、橙、緑の葉に惜しげも無く降り注ぎ透き通る様な軟らかい色を地上に反射させている

道は少々荒れてはいるが むしろ、こちらの方がずっと風情が有って好ましい






展望も悪くない

見慣れた妙義山も小幡から眺めるとあの険しさが無く何処となく優しい気がする

よくよく見れば妙義の後ろに浅間山も顔を出している

「城下町から一歩でれば長閑だねぇ」と言いながら村の中の道を雄川に下りた

街を囲むようにウネウネと連なる山並みを眺めながら河の畔を散策していると一瞬、全く知らない所へ来た様な錯覚さえ覚える

先ずは今日の日和に感謝だろう




矢来垣が続く楽山園の横を通り此処でも園に入るのを後回しにして武家屋敷を先に回る事にした

左のお屋敷(高橋家)は門が閉ざされ残念ながら中の様子を伺う事は出来ないが

武家屋敷の中で最も昔の様子を残している建物という事だ

塀越しに見えるムクロジの大木は歴史の変遷をどのように見つめて来たであろうか










こちらは高橋家の隣に建つ松平家のお屋敷




その直ぐ先に有る喰い違い郭は戦時の防衛の為に造られたものであり

又、上級武士の姿を見た下級武士は この石垣に身を隠しやり過ごしたとも言われている


では23400㎡小幡氏の居城跡と大名庭園“楽山園”の門を潜る事にしよう










十九間長屋、当時の格調の高さが偲ばれる回遊式の庭園と見てまわり当時のお殿様もそうしたであろう茶屋の縁に腰かけ

見飽きる事のない昆明池を眺めていると時が止まったかの様な静けさに何時しか惰気を催してきそうだった

この木は「楽山園の梅」樹高10m、名張り東西10m、南北12mという大木




ー続くー



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蔵の町 下野

2011年10月20日 | 旅行
R50~R11に入り左に大平山が見えてくる辺り重厚な古民家が集合しています

何処か韓国の両班の家を思わせる民家にお邪魔し一枚撮らせて頂きました




栃木市の有料駐車場に車を預け早速、市内を歩きます

県庁が宇都宮に移った事が功を奏したのか街並みは近代化されず町のアチコチに明治・大正の面影を偲ぶ事が出来ました


     
商家と大場医院(現在も営業されています)




およそ200年前の善野家の土蔵・現在美術館になっていますが生憎、休館日でした

この蔵は別名お助け蔵と呼ばれ失業者の為の対策事業として蔵を建てた事によりそう呼ばれる様になったそうです



   
元県庁と県立栃木高校敷地内に建つ図書館







栃木医院・現在は使用されていませんが隣接して建つ診療所で営業は行われていました










この通りは例幣使街道、家康が日光に改葬されたのち毎年、朝廷から例幣使が使わされた事によりその名が付きました

ちょうど人形祭りの最中でお蔵にしまわれているお雛様が飾られています

レトロですね。テンパツリと読まないで下さい。




同じく例幣使街道沿いの嘉右衛門通りに建つ550年の歴史を持つ代官屋敷

江戸時代の畠山氏陣屋跡で後に岡田嘉右衛門が代官として赴任した旧家です




オッ、これはこれは







岡田家の別邸、広大な土地に回遊式の庭園が見事です

ちょうどドラマの撮影が行われていました




さて大分歩きました

巴波川の畔で麻問屋と銀行を併せ持つ豪商横山家を眺めながら一休みでもしましょうか













横山家から下流に向かうと左に木材問屋塚田家の白壁土蔵と120mに及ぶと言う黒塀が見えてきました

当時の繁栄振りを偲ぶ事が出来る貴重な建物です

ツアーの方たちでしょうか

一回り3000円、私はパス




塚田家の向かいに雑貨商らしき店を見つけました

この家をスケッチしている人の作品を盗み見ましたところ、ウ~ン中々の腕前




和と洋、新と旧が上手く融合したかつての街並みを堪能し家路への道すがら西の空に彩雲が浮かび上がったでは有りませんか




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(25)フランス・スイス紀行(20日間) 無賃乗車

2011年01月31日 | 旅行
(前夜より続く)
何時の間にか寝ていたようで暖房が入れられたエンジン音で目が覚めた。
外はまだ暗く時間的には4時半頃だろうか。
主人は?
起きたとき一人というのは心細いものだ。
が、そんなとき主人は必ず次にやらなくてはならない行動をする事を私は知っている。
その通り「切符を買いに行ったのだが改札が閉まっているので訳を話して車内で買おう。
     今、昨晩の親切な駅員が明けで帰るところだったのでお礼は言っておいたが
     を持っていたら一枚写させて貰ったのに、失敗したな
と言って戻ってきた。
5時17分、列車はサンスを離れ検察もないままパリ・リヨン駅に到着
フランスの駅に改札は無いので結局、私達は無賃乗車をしてしまったわけだが
昨夜の事も、この事も何か解らない大きな力が私達を守ってくれた様なそんな気がしてならない。
シャモニに旅立つ前にフランクと朝食をとった構内カフェで朝食をとりメトロで無事オテルへ。

あっと言う間の20日間だった。
叶うならば、もう一度シャモニからやり直したい気分である。
ドゴール空港へは17時に行けば良いので、その前にモンマルトルの丘に行くことにした。



モンマルトルは19世紀初頭までは一面のブドウ畑と風車が回る長閑な所だったそうだ。
画家や作家はそんな牧歌的な風景を求めこの地へやって来たのである。
しかし私達が今それを求めて歩いてもその面影は一片も無く
もし有るとするならば一角にヒッソリ置かれた、やや伏し目がちなダリダの胸像だろうか。



15時45分、マイクロバスを頼んでドゴール空港に向かった。
ごった返す成田空港とは大違いで諸手続きもスムーズ


                              ドゴール空港
色々なアクシデント続きで買い足りなかった土産を買い19時搭乗した。
失敗したり喧嘩もしたりの初めての海外旅行では有ったがフランスを離れ少しずつ日本に近づくにつれ
嫌な事は消え失せ楽しい事ばかりが思い出されてくる。
広大な山々と黄色いパウダーをまぶしたような草原の美しさは心に沁みるものが有った。
ツムゼーの村の心落ち着く風景は今でもしっかり目に焼き付いているし少女との一時も楽しかった。
フランスに於いては地平線の彼方まで続く小麦畑
時代が行ったり来たりしたロワール地方
オノボリサンになってパリの名所を巡り歩いた一日・・・・・・
「パドゥン?」突然、主人が口を開いた。
相手は日本のスチュアーデスさん
「フランス語はもう、使わなくていいのよ」私は笑いの中で現実に引き戻されてしまった。

13時40分、予定より10分早く成田空港に到着
外国人の顔も雄大な景色も、もう何の違和感も無くなりそれが当たり前となった今
ムッとする暑さの中で日本人と建物が妙に歪んで見えた。
私達はドゴール空港で仲良しになった姉妹が、迎えに来たオバアチャンとの再会を喜んでいる姿を横目に
一足先に帰国したO君が待つ場所へと急いだ。



こうして筆を綴る中、ドゴール空港を7/26飛び立ったコンコルド機の墜落のニュースはショックだった。


                  フランク夫妻、有難うございました。
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(24)フランス・スイス紀行(20日間) 

2011年01月30日 | 旅行
初めてのヨーロッパ旅行も残り2日となった。
今日はどうしようと思ったところへAから・・・・
盗まれた荷物が見つかったらしい。
山田さんにその旨を伝え
何はさて置きパリ・リヨン駅より12時23分発でアバロン駅まで行きそこからタクシーでヴェズレーへ向かった。

荷物が置かれた場所へ行くと
どれも泥にまみれた盗難品がズラッと並んでおりその中に哀れな青いスーツケースが見える。
中を開けてみると先ず異臭が鼻をついた。
衣類もパンフレットもグチャグチャに詰め込まれ総て水浸しである。
その中でホッとしたのは諦めていたフイルムが無事だった事だ。
祈るような気持ちでチャックを開けるとアッター
濡れてはいたが航空券が2枚。
盗まれた物は携帯電話だけだった。


             アバロンへ帰るタクシーを呼んで頂いたので「コーヒーでも飲んで下さい」と紙に包んだ紙幣を渡すと
             日本だったら職務ですからと辞退するところだがスンナリ「メルシー」

アバロン駅でAに航空券は無事だったと連絡を入れ、やっと終わったという気持ちで19時18分の電車に乗り込む。
ところがだった。
検察に来た駅員が怪訝な顔で「パリへの最終便は18時43分で、この電車はオーセル迄しか行かない」と言う。
「そんな筈はない」と日本で買った時刻表を見せると「数日前にダイヤ編成が有ったのだ」と駅員は説明した。
                             それはナイヨナ~
唯一の望みはラロッシュ・ミジェーヌの駅から出る21時16分の電車である。
オーセルで降りタクシーをつかまえチップを弾んでラロッシュまで飛ばして貰ったが無情にも列車はホームを離れるところだった。
フランスパス有効は今日までなので、こうなれば一駅でも先に行こうと22時15分発の最終便でサンスへ
大きな街で有って欲しいと願う気持ちは裏切られオテルは勿論レストランも閉まる閑散とした町だった。


                      
陽が陰ると途端に肌寒くなるフランスは夜になると一層寒くなった。
アバロン駅で買った大きなソーセージ2本を分け合って食べたが、とても足しにはならない。
一軒だけ開いていた店も場末のキャバレーの様でとても私達が入れる雰囲気ではなかった。
仕方なく駅に戻った、がホームに有る待合所はガッチリ鎖で固められドアはビクともしない。
主人が隣のホームの様子を見にいっている間、震えながらベンチに腰を下ろしていると
ラロッシュに帰る若い男性二人が話しかけてきた。
言葉が解らないとジェスチャーで答えるもかなりひつこい。
オーセルに来るとき彼等も一緒だったのは知っていたがイワユル風袋の悪い若者なのだ。
丁度そのとき主人が「此処の待合所は中に入れるぞ」と呼んでくれたので急いで隣のホームに走った。
だからと言って寒さに変わりはなく冷たい風が避けられるというだけだ。
カバンから大きな地図を出して体を覆い少しでも寝ようと横になっていると
電車を降りたとき麻薬取締りのためシェパードを連れていた駅員の一人がやってきて
「隣に停まっているいる列車は明日一番でパリに向かいます。乗っていて下さい」

勿論これはやってはいけない行為なので駅員は周りを気にしながら鍵を開けてくれたのだ。
感じの良い20代の男性だった。






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(23)フランス・スイス紀行(20日間) パリ(3)

2011年01月29日 | 旅行
コンコルド(平和)広場の周囲は車の往来が激しくなかなか渡る事が出来ない。
命がけの横断でシャンゼリぜ通りに入るとパリ祭の後片付けの最中で折角の美観が損なわれる光景だったが
青々と繁る並木はとても美しかった。
コンコルド広場から2キロほど歩いて凱旋門に到着
友達に頼まれたヴィトンのバックを買うためルイ・ヴィトンへ
話には聞いていたが店内は圧倒的に日本人客が多い。
預かってきたカタログの切り抜きを渡したところ数人で色々調べてくれたが在庫が無いらしく店員の言葉は手をあげて
「フィニッシュ」「ナッシング」だった。



以前エトワール広場と呼ばれていたこの広場は
ド・ゴールの功績をたたえて現在はシャルル・ド・ゴール広場と呼ばれている。
その広場に建つのが凱旋門だ。
建てられた当時は見渡す限り野原だったと言うから
ナポレオンが今の街並みを知ったらきっとこんな顔をしたのではなかろうか
写真は壁面のレリーフだが市街戦で血を流しながらも戦った雄々しい戦士を描いたものだ。



                       凱旋門が見えるシャンゼリゼの一角で昼食
                       ピザを一皿頼んだのだが二人でも食べきれない量だった。

ここから再びコンコルド広場方面に少し戻り途中で右折してジョルジュ・サンクス大通りを抜けアルマ橋を渡ってエッフェル塔に向かった。
アルマ橋と言えばダイアナ妃がトンネル内で事故死したところで、このニュースを知らない人は居ないだろう。



「もう、そろそろ曲がった方がいいだろうか」
「いや、もう少し行ってから曲がろう」
私達は塔を常に視野に置きながら特に目立った建物も無い通りをノンビリ歩いた。
ライン川を渡ったこちら側一体は昔、湿地帯で人も集まらない寂しい所だったという。
しかし人間の力を褒めるべきか嘆くべきか分らないがここも大きく変貌した街となったのである。
エッフェル塔が段々近づいてその真下にやって来たとき東京タワーすら見た事の無い私はその巨大さに立ち尽くした。
高さ320Mのこの塔は1889年の万博の為に建造されたパリの象徴の一つである。
この塔が照明で夜空にキラキラ輝く様はオテルですでに楽しませて貰っている。



時刻はすでに16時を過ぎていたが観光客の波は耐えなかった。
イエナ橋でセーヌ川を渡り返しエッフェル塔と向かい合うシャイヨー宮へ。
この建物は1937年のパリ万博のパビリオンとして建てられた半楕円形の博覧会場である。
その広場の一角で黒人の民族楽器が奏でる音色に耳を傾けた。

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